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「痛い」と表現すること

 先日読んだ、梨木香歩「僕は、そして僕たちはどう生きるか」で、自分の経験に関連があって印象に残っている箇所がある。そこから、ちょっと考えてみようと思う。

 物語の最後のほう(でも、物語の根幹の流れには触れませんので、ネタバレさせません)で、コペル・ユージン・ノボちゃん・ショウコ、そしてショウコの友人のオーストラリア人のマークはユージンの家の庭で焚き火をして話をしている。その話の中で、「人から妨害を受けたり、傷つけられたり」することについて語る箇所がある。もし、誰かにそうされたら…マークは「足を踏まれたら、痛いって言えばいい。踏んでる方はそのことに気づいていないかもしれない」と。ショウコもそれに同意するが、一方でユージンは「黙って踏ませとくよ。めんどうだし」と言う。それに対してのショウコの言葉に、どきりとしました。以下引用します。
 「黙ってた方が、何か、プライドが保てる気がするんだ。こんなことに傷ついてない、なんとも思っていないっていう方が、人間の器が大きいような気がするんだ。でも、それは違う。大事なことがとりこぼされていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだってことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。あんたが踏んでんのは私の足で、痛いんだ、早く外してくれ、って言わなきゃ」
(254~255ページより)

 続けて、「言っても外してくれなかったら?」の問いには
「怒る。怒るべきときを逸したらだめだ。無視されてもいいから怒ってみせる。じゃないと、相手は同じことをずっと繰り返す」
(255ページ)

 私もユージンと同じように、「黙って踏ませとく」、踏ませておけばいいと思っている。別に踏まれても痛くなんかない。傷ついていない。このくらい、我慢する。気にしない。そう思ってきた。

 先日も、そんなことがあった。職場で雑談していた時のこと。私の好きなものに関する話になった。私はそれを「好き」と言ったことはなかったし、その時もまだ言ってはいなかった。その時、相手はその私が好きなものに対して、「嫌い、受け付けない」と言った。えっ?私は驚いた。思わず「えーっ」と茶化した声で反応したが、心臓はドキドキバクバク。頭は混乱し始めた。かなしい気持ちがじわじわと溢れてきた。私の心の中は大混乱していたが、相手は私に聞いた。「好きですか?」と。私は、動揺を見抜かれないように「好きですよ」とだけ、さらりと答えた。それ以上の話はしないように努めた(でも相手がそれに関することを色々話すので、軽く答えてはいた)。それ以上話をしたら、この動揺が、ボロがでてしまうだろうから。

 別に、その時の話し相手に、それを好きになって欲しいとは思わない。人それぞれ好き嫌いはある。自分の好きという気持ちを強要する気は全くない。その相手とは職場だけでの関係でもあるから、深入りする必要はない。でも、相手は私がそれを好きだと知らなかったが、面と向かってストレートに「嫌い」と言われたら、どうしても動揺してしまう。その日はとにかく早く仕事が終わってほしい、早く帰りたい、ひとりになりたい…そんな気持ちでいた。

 帰宅してから、そのことをtwitterに書き込んでいたりしていたら、何年も前のことを思い出した。大学に入学した頃の話だ。私は、ある人と友達になった。同じサークルに入った、という縁だ。その人はとても快活で、年上同い年関係なく初対面の人とも臆せず話し、すぐに場に馴染んでいた。私はそれまで、そういうタイプの人と友達になったことはなかった。同じクラスにいても、距離を置いていた。それが同じサークルに入ったことで、友達になった。いや、この時はまだ”友達”と捉えていなかった。

 ある日、私とその人で話をしていて、その人が大好きだと言うものの話になった。私はそれがあまり好きではなかったので「あまり好きじゃない、嫌い」と言った。するとその人は怒った。「人の好きなものに対して、面と向かって嫌いって言うのはどうかと思う」。私はその時、自分の思ったこと、事実を言ったまでなんだけど、何故怒られなきゃならないんだ…。その人だって、普段は何でもストレートに話しているのに…。この人、よくわからない。私は不機嫌だった。でも、それから、私はとても時間がかかったが、本音を言い合うようになり、”友達”と呼べる…いや、”親友”とも呼べる仲になった。今も、交友は続いている。私にはない長所をたくさん持っていて、いい刺激を受けている。その人との友情が続いていることに感謝している。

 何かを好き(もしくは嫌い)であること、そしてそれを表現することは、その人の個性でもある。自分とは別の存在だけれども、好きなものは自分の一部のように感じている。例えば、人ならその人が病気になったら心配で、早く治って欲しい、元気になって欲しいと思う。その人が嬉しいなら、私も嬉しくなる。そして、その人が否定されたら、かなしくなる。自分も否定されたように思ってしまう。そう、職場で私の好きなものを「嫌い、受け付けない」と言われた時、私は自分を否定された気持ちにもなった。だから、酷く動揺し、かなしくなった。

 あの日、大学で出会った友達は、私の発言をダメだと怒ってくれた。「僕は~」のショウコのように、足を私に踏まれて、痛いと言った。踏んだら痛いだろう、「嫌い」と面と向かって言ったら傷つくだろう、と。

 そのことを思い出して、私は、傷ついたことを隠そうとしたことは、それでよかったのだろうかと考えている。自分がそれを「好き」だと熱弁はしなくてもいいから、「私は好きですよ。知らなかったから仕方ないですけど、人に面と向かって”嫌い、受け付けない”と言うことは、どうかと思いますよ」と言うべきだったのだろうか。私に、その勇気はない。動揺しながら、そんなことは言えない。それよりも、「怒るべきときを逸してしまった」のだから、もうどうしようもないのだが。そして、大学時代からの友達の、勇気は物凄いものだったと今になって、実感した。

 今度、また同じような場面に出くわしたら…言えるだろうか。痛い、と。

・過去記事:僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

梨木 香歩 / 理論社


by halca-kaukana057 | 2011-11-28 23:01 | 日常/考えたこと

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