春楡の木陰で

 免疫学者の多田富雄先生のエッセイはこれで3冊目。著作はたくさんありますが、その中では新しい方のエッセイです。


春楡の木陰で
多田富雄/集英社・集英社文庫/2014
(「ダウンタウンに時は流れて」[集英社・2009年]を改題)

 前半は多田先生が若い頃、アメリカに留学していた時の話。大学院を修了し、コロラド州デンバーの研究所に留学することになった。留学中、ドイツ移民2世のトレゴ夫妻の家に下宿することになった。老夫婦に英語を習いながら、トレゴ夫妻やお隣のウクライナ人のコプロウスキー夫妻、街にあるバーや中華料理店にも通い人々と親交を深めてゆく、が…。

 1960年代のアメリカ。一言で言えば、若き日本人研究者のアメリカ留学青春物語、だろう。でも、その一言では言い尽くせないほどの様々な人々と交流、事件、アメリカ社会の現実に向き合うことになる。多田先生はとても柔軟で、先入観を持たずにデンバーのダウンタウンの人々に馴染んでゆく。貧しい暮らしをしている移民の人々。下級社会の人々が集うバー、リノ・イン。米のご飯を食べたいと紹介してもらった中華料理店・ロータスルームで働く日本人・チエコ。同じようにデンバーに住んでいた日本人たちなら眉をひそめるような地域、店、人々にもおそれることもなく、身構えることもなく入る。最初は見慣れない日本人が来たと思っていても、彼らは寛容に多田先生を「トミー」、「ブラザー」と呼び、親しくなってゆく。しかし、彼らの生活はもろいものの上にあった。トレゴ夫人との突然の別れ、リノ・インを取り巻く街と人々の変化、厳しい暮らしをしてきたチエコの交友とその後…どの話でもやるせない気持ちになる。チエコさんの結末には言葉が出ない。彼らは苦しい境遇だろうと、デンバーの街の片隅で生きていた、暮らしていた。儚いけれども、たくましかった。変化するのが人間の世。日本だろうとアメリカだろうと同じ。でも、それで追いやられた人々がいる…忘れてはいけないことだと思った。

 後半は、多田先生が脳梗塞で倒れてからのこと。研究に一心不乱で、奥様の式江(のりえ)さんのことを思いやれなかったと後悔する。病気になって、不自由な身になって、初めてわかることがある。愛おしく大切なものだったと思い出すものがある。ちょっと風邪を引いて鼻や耳、喉の調子が悪い程度でも、毎日点滴を打つほどの体調不良でも、病気になって当たり前のものが当たり前ではなかった、大切なものだったとわかることは私もある。しかし、脳梗塞で身体が思うように動かず、言葉も話せない、声も出せない、ものもうまく食べられない…でも思考は止まらない…そんな状態の過酷さは、この本で書かれている以上のものだろう。病気になって初めてわかる…と言うのは他人事のようにも思える。それでも、奥様や家族のとのことを思い出す。多田先生が本を執筆出来るまで回復されて本当によかった。「羽化登仙の記」「花に遅速あり」「姥捨」のエピソードにはドキリとするところもありつつも、自分の身体を第三者の目で見るように病気になったからこそ見えてきた、わかったものが書かれていて、多田先生がこの本を遺してくれて本当によかったと思った。

 私事の話だが、私の父も脳梗塞に倒れた。当時私は実家を離れて一人暮らしをしていて、父が倒れたと聞いて驚き、休みの日に地元に戻った。病室の父は、何か言いたそうで、でも思い通りにならないようだった。それから父もリハビリをして、杖をついて歩けるまでになったが、様々な障害が残った。認知症のような症状もあり、性格も話すことも以前の父と全く変わってしまった。それまでと異なる父の姿、性格、言動に戸惑い、どう接していいか分からなかった。母は父を献身的に介護していた。今思うと、母の苦労と寛容さに私はひどく鈍感過ぎた。それでも、その後実家に戻って父と暮らすうち、少しは父に寄り添えたかなと思うこともあった。ただ、子どもの頃に退行してしまったようになっていたので、父とじっくり会話することは少なかった。父と一緒に酒を飲みながら…なんてことも実現しなかった。倒れてから、父はそれまで手放せなかった酒もタバコも一切口にしなかった。その後、父はまた病に倒れ、逝ってしまった。

 この本を読みながら、亡き父のことを思った。父は倒れてから、何を思っていたのだろう。私や母に何を伝えたかったのだろう。父の話を"聞く"方法もあったんじゃないか、とも思う。病気になってからわかることは、本人だけではなく家族にもあるのだと思った。思い出すことも増えるのだな、と。


【過去の多田先生の著作感想記事】
生命の木の下で
イタリアの旅から 科学者による美術紀行
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by halca-kaukana057 | 2015-03-22 22:46 | 本・読書


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