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君たちはどう生きるか

 先日読んだ「僕は、そして僕たちはどう生きるか」(梨木香歩:著)の元となった「君たちはどう生きるか」、読みました。岩波文庫版で。

僕は、そして僕たちはどう生きるか:(梨木香歩)

君たちはどう生きるか
吉野源三郎/岩波書店・岩波文庫

 この作品が発表されたのは1937年(昭和12年)。その後、修正はされているが、書かれている内容は今読んでも古臭いとは感じなかった。現代でも通じる、普遍の内容であると感じた。「貧しき友」の章も現代に通じるところがある…と書くと、豊かになったと思える現代でも貧困の問題を克服できていないのか…と考えてしまった。この作品の時代の貧困と、現代の貧困はまたちょっと違うけれども。

 15歳の中学生の少年・コペル君(本名は潤一だが、そうあだ名がついている)と、学校の友達、そしてコペル君が父を亡くした後、父親のような存在であるおじさんとの交流や会話、様々な出来事を通して、コペル君が成長してゆく物語として書かれている。友情や生き方について書かれている部分もあるが、メインは「社会の中で生きる」ということ。デパートの屋上から街を見ていたコペル君が、僕らは広い世界の一分子で、人間はその集まりだ…ということを考え、おじさんに話す。そして、その”分子”は「生産関係」の中で、ものを生産し、消費している。ものは世界中を駆け巡る。会ったこともない人とも、生産した何かで繋がっている。それは、遠い過去から続いている。文化や芸術も、世界中を駆け巡って伝わり、それぞれの民族によって異なる特色が加えられた。普段、生活していると自分の身の回りしか気にしない、身の回りのことだけ考えてしまう。が、コペル君とおじさんの言葉は、誰もが広い世界に人間同士何らかの関わりを持って生きているんだ、という視点を静かに、穏やかに、優しく語りかけ、気づかせてくれる。

 そんな世界・社会で生きてゆくためにも、自分が感じたことをごまかさず、正直に受け止めて考えてゆくこと。過ちを犯したら、苦しんでもそれを認め反省し、もう一度立ち上がること。歴史に学ぶこと。社会のために貢献すること。おじさんはこれらを力強く語りつつも、押し付けるようなことはせず、一文一文考え、噛み締めながら語る。おじさんの視点で読むか、コペル君の視点で読むかで、また味わいも異なる。深い本だ。

 「雪の日の出来事」から「石段の思い出」「凱旋」までの章は、結構重めの物語。友情を壊してしまったというコペル君の境遇に、自分の過去を重ね合わせて読んだ。切ない、辛い、苦しい。でも、コペル君はおじさんや母の言葉に励まされ、友情を取り戻そうとする。コペル君も、友達もとても真摯で、心優しくあたたかく、こんな友情はずっと続いていくんだろうなとちょっと羨ましくもなった。それを作るのは、読者の君たちなんだよ、と筆者は言いたかったのかもしれない。

 お茶目でいたずら好きなコペル君や、友達との無邪気な会話、更に柔らかいイラストがユーモラス。書かれている内容は濃いのに、あたたかく手を引いて物語の世界へ入れるようにしてある。80年以上も読み継がれていても不思議じゃない、と感じました。

 中学生、もしくは高校生の時に出会いたかった。でも、大人になってから読んでも遅くは無い。いい本だ。いい本に出会えて幸せだ。そして、この本は「社会の中で生きる」スタートラインなんだ。そう感じました。物語はまだまだ続きそうなところで終わっている。この先は、君たちが生きて、作ってゆくのだよ。おじさんがそう言っているような気もします。
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by halca-kaukana057 | 2012-01-25 23:10 | 本・読書

ヤコブへの手紙

 少し前に、面白そうなフィンランドの映画を見つけました。私の地域では上映されなかったのでDVD待ち。ようやく観ました。

ヤコブへの手紙(原題:postia pappi Jaakobille) [DVD]

監督・脚本:クラウス・ハロ/出演:カーリナ・ハザード,ヘイッキ・ノウシアイネン,ユッカ・ケイノネン,エスコ・ロイ/ネエプコット/2011(フィンランドでの公開は2009)



 1970年代のフィンランド。終身刑で12年間刑務所にいたレイラは、恩赦で釈放される。釈放されても行くあてもないレイラだが、勧められしぶしぶ年老いた盲目の牧師・ヤコブのもとで住みこみで働くことに。仕事は、ヤコブに届いた手紙を読み、返事を代筆すること。ヤコブに届く手紙には、人々の悩みや相談、祈っていて欲しいということが書かれている。レイラはその手紙を読みつつも、内容やヤコブの話すことに理解を示さず、ヤコブや郵便配達人と距離を置いていた。
 そんな中、ヤコブのもとに手紙が一通も届かなくなってしまう。落ち込むヤコブ。そんなことは自分には関係ない、どうでもいいと思いつつも、レイラは…。

 75分と短めの映画です。牧師さんがメインキャストであること、タイトルの「ヤコブへの手紙」も新約聖書の「ヤコブ書」を意識していることなど、キリスト教の思想が根幹にある作品です。なので、キリスト教に疎い私が観ても大丈夫だろうか…と思っていたのですが、観て、キリスト教というひとつの宗教に限定されない、「生きること」全てに共通するものを感じました。

 終身刑という重い罪(何の罪なのか、何を犯したのかはネタバレになるので伏せます。物語の最後で出てきます)を負い、人と距離を置き分かり合おうとはせず、いつも周囲を警戒し、威嚇しているレイラ。更に大柄で恐そうな顔。一方、年老いて盲目ではあるけれども、人々から毎日手紙が届き、相談にのっている心優しいヤコブ牧師。全く正反対の2人。レイラが刑務所を出て、ヤコブの住む牧師館へやってきた時も、ヤコブは歓迎するが、レイラは何故自分はこんなところに来なければいけないのだと言わんばかりの態度。手紙を届けに来る郵便配達人も、ヤコブを慕う一方で、レイラは終身刑だった女だと知っており、恐れてなるべく関わらないようにしている。レイラからすれば、わけのわからない老牧師と、どうでもいい手紙を読み、郵便配達人にもイライラする。レイラは何か事件を起こすんじゃないかとハラハラしていました。

 しかし、時間は淡々と流れる。牧師館の周囲は、白樺の林が美しい。まさにフィンランドの田舎だ。レイラとヤコブの食事やお茶の時間も、ぎくしゃくしているようでどこかゆるやかな空気が流れている。そして、”静か”だ。レイラがどんなにイライラしていても、雨で牧師館のあちらこちらで雨漏りがしていても。この静けさに、レイラの凍りついた心の奥にある何かが見えてくるようだ。

 そして、突然来なくなったヤコブ牧師への手紙。手紙を心待ちにしていたヤコブにとってはショックである。自分はもう必要となくなってしまったのではないか。レイラも、ドアの前で郵便配達人を待つが、素通りしてしまう。来なくなった手紙、そしてレイラの一言が、今度はヤコブ牧師を変えてゆく。牧師ではなく、ひとりの人間として。

 ヤコブにとって、手紙は何だったのか。牧師であることは、どんなことだったのか。そして、レイラも恩赦で釈放されたが、”元終身刑”であることを引きずっている。本当は終身刑の受刑者のままでいい、そうあるべきだとさえ思っている。2人を取り巻いていたもの、支えていたものが無くなり、孤独な2人の人間が、肩書きの無い人間として「生きること」「生きてゆくこと」を語り始める。誰からも必要とされなくなっても、孤独でも、生きる。生きる道はある。生きる意味はある。レイラからヤコブへの”手紙”、ヤコブに届いたある人からのレイラへの手紙。その深みが、じわりじわりと心に届きます。

 レイラは来るべくしてヤコブのところへ来たのだろうし、ヤコブもレイラが来なければ気づけないことがあった。人間が「生きる」ことを、控えめに、ひっそりと、でも崇高な思いを持って伝えようとしたこの作品に、静かに拍手を贈りたいです。音楽もいい。

「ヤコブへの手紙」オフィシャルサイト (*ジャンプすると予告動画が自動再生されるので、注意してください)

 ところで、この公式サイトに、「郵便配達人を巡るギモン」というのがあった。ん…確かに、郵便配達人の視点からこの物語を観ると、全然違った物語になる。郵便配達人の行動も、謎めいているところがあるし…。郵便配達人は、一体何者なんだ?何なんだ、この映画…。

 ちなみに、この映画から生まれたサイドストーリー絵本「シニッカさんどうしたの?」(絵・文:七字由布)も出ているとのこと。アマゾンにはないようだが、読みたいなぁ。
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by halca-kaukana057 | 2012-01-16 23:40 | フィンランド・Suomi/北欧

食べること、料理すること、生きること

 昨日、BSプレミアムで放送されていたドキュメンタリー「初女さんのおむすび ~岩木山麓・ぬくもりの食卓~」。青森県岩木山麓に、「森のイスキア」(「イスキア」とは、イタリアの裕福な家庭の息子が、贅沢三昧の生活から自分を静かに振り返ることを学んだという島の名前に由来)という家(滞在施設)がある。その主宰者である佐藤初女さんは、若い頃病気になったことで食の有難さ・大切さを実感し、悩みや不安を抱える人々を迎え、話を聞き、美味しい料理を食べて心の問題を身体から改善していこうと実践している。佐藤初女さんのお名前は聞いたことはあったが、何をしているのかよく知らずにいた。何となく観ていたのが、いつの間にか見入ってしまっていた。今回、この番組を観て、感じたのは「食べることがいかに大切か」ということだった。

 初女さんの料理の素材は、岩木山麓の森で採れた季節の山菜やきのこ、野菜や魚など。そして、丸いおにぎり。それらを素材の持ち味を生かして料理している。この番組は初女さんが87歳の時に取材された(2008年)。現在、90歳となっても変わらずお元気で、傷ついた人々を迎え、自ら献立を考え「イスキア」のスタッフと共に料理を続けているそうだ。漬物や梅干も手作り。「イスキア」を訪れた人々は、これまでのことや心の内を初女さんに語り、一緒に食卓を囲む。抱えている問題もそれぞれ。心の内を話す時は、悲痛な表情・声でも、食卓を囲んで食事を取ると、徐々に顔色・声のトーンが良くなっているのが感じられた。10代の頃から10年間、大した食事もできなかった女性が、「10年ぶりに食べられた」と料理をゆっくりと、食べられる喜びも一緒にかみ締めるように食事を口に運ぶシーンが印象的だった。また、ガンと闘う若いお母さんも、食べて、病気を治す、と、とても力強い。

 私自身、食べることを、これまであまり意識してこなかった。以前は料理もよくしていたが、面倒になりスーパーのお惣菜で済ませてしまうことが多い。食べる時も、とにかく食べられればいい、と。体調が悪く、食欲が無い・食べても美味しく感じられない時も、無理してでも食べる。でも、そんな食生活は味気なくむなしい。そう感じていたところでした。

 初女さんは、食材も命であること、その命をいただいて自分の命にすることを強調している。だから、調理する時も食材の気持ちに配慮した調理をするように、と。(食材の気持ち…と言うと何か奇妙に感じるが、食材・命を無駄にしない、と解釈すればいいのかな)

 私も、今様々な問題にぶち当たったり、先が見えなくなったりしている。そんな時、立ち向かう、日々コツコツと進む力を与えてくれるものは何だろう。答えは、食事だろう。美味しいものを食べれば元気が出てくる、元気になる。初女さんのように一から手作りするのは難しいけれど、もっと自分の食を、食に対する考え方を見直そうと思っている。料理する機会をもっと増やそう。美味しく食べるためでもあるし、食材の命を考えることにもなる。そして、食べて、生きてゆくためでもある。簡単に言えば、食べるなら健康的な美味しいものを食べたい。味だけでなく、四季と豊かな自然によってもたらされた食材を心から「美味しい」と思って、ゆっくりと味わいたい。

 生きる基本は、食べること。それを大事にしようと思う。

 初女さんの著書も読んでみようかな。

おむすびの祈り「森のイスキア」こころの歳時記 (集英社文庫)

佐藤 初女 / 集英社


いまを生きることば「森のイスキア」より (講談社+α文庫)

佐藤 初女 / 講談社


 入手しやすい文庫版から。

 あと、観ていて感じたのですが、雰囲気が、映画「かもめ食堂」、ならびに「西の魔女が死んだ」(映画版も、梨木香歩さんの原作小説も)のようだなと思った。「かもめ食堂」は、シンプルだけど美味しそうな味わい深い料理と、色々な人がやってくる「かもめ食堂」の様子が。「西の魔女が死んだ」のおばあちゃんは、初女さんのような人だなぁと(あくまで、私の所感です)。料理も、自然のものを活かした料理だった。食べることの大切さという意味では、「南極料理人」もかな。どれもまた観たくなった。観よう。
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by halca-kaukana057 | 2012-01-11 23:28 | 興味を持ったものいろいろ

こころと脳の対話

 この本のことは前から気になっていて、読もうと思っていました。その後、NHK-BSプレミアム「宮川彬良のショータイム」第4回の「脳科学ミュージカル」を観て、この本のことを思い出しました。茂木さんがゲストだったこともあって。脳って一体何?心はどこにある?心と脳はどんな関係にあるの?そんな疑問を抱きながら、ちょうど文庫化もされていたのでじっくりと読みました。

・「脳科学ミュージカル」の感想のようなものなど:その想いをミュージカルで代弁します 「宮川彬良のショータイム」第4・5・6回感想まとめ
↑かなりの長文記事ですごめんなさい。前半のほうにあります。


こころと脳の対話
河合隼雄・茂木健一郎/新潮社・新潮文庫/2011(単行本は2008、潮出版社より刊行)

 心理学・心理療法の河合隼雄さんと、脳科学の茂木健一郎さん。この2人が3回に分けて、脳と心、そして人間について語り合う。茂木さんと言えば、「クオリア」(脳科学において、脳の働きは数量化できる。しかし、数量化できない「質感」、「質」や「状態」のこと)。この脳科学においての「質感」について、ユングやフロイトは考えていたのか…という話から始まります。先に挙げた「脳科学ミュージカル」でも表現していたのですが、脳と心は繋がっている、でも、脳のことがわかれば心もわかるわけではない。このことに、ますます脳と心の関係にますます興味を持ちました。脳も心もまだまだわからないことばかり。そして、脳のことがわかっても心のことがわかるわけではない。こう言われると、わけがわからない…と言いたくなりそうなのですが、わからない、簡単には解明できないからこそ惹かれています。不思議だ。いや、もし脳のことが全部解明されて、心も全部わかってしまったら…人間の行動や思考をコンピュータでプログラミングできるような感じがして、そっちのほうがわけがわからないと私は思います。
 実際、第3回の部分に、パーキンソン病の原因となっている脳のある部分に電極をあてて神経伝達を調整すると、症状がパッと無くなり普通に動く。また、抑うつ症でも悲しい時に活動する中枢部分に電極をあてて調整すると、症状が全く出なくなる(全ての被験者がそうなったわけではない)。でも、寂しさや悲しみなどの感情を操作するようなことをしていいのか。どこまでやれるのだろうか、という倫理的な問題も出てくる、という内容のお話がありました。倫理的な面でも問題になると思いますし、それが出来るとしたら「感情って何だろう?心って何だろう?」という問題にまた突き当たる。脳と心の関係は、グルグルと回っているみたいだ。

 この本でよく語られ、面白いなと思ったのが「関係性」のお話。心理療法でも、カウンセラーや先生と患者の信頼関係があって、治療が進んでゆく。また、個と個の関係があって”私”があるという「華厳経」の考え方。脳でも、神経細胞がネットワークをつくって、「クオリア」も意識も生まれる。一方で、ユングの「シンクロシニティ」(共時性)は、外のものと外のものが因果的に結びつくのではなく、自分の無意識と外のものが呼応する。関係性があるといっても、何にでもあるわけではない。確実ではないのに因果があると思い込むと、視野が狭くなってしまう。思考が偏ってしまう。関係性があるという面白さと同時に、何でも繋がっている…とは簡単には言えないのだなという別の面白さを感じました。

 また、科学に対するお話も。事象を一般化、標準化できないと、「科学的」とは言えない。例えば、箱庭療法でも、「科学的」にやるには箱庭で使うものを一般化すべきだという考え方があって、実際使われているところもある。でも、「全体をアプリシェイト(味わう)することが大事であって、インタープリット(解釈)する必要はない」(23ページ)と河合さんは主張し、ゆるい基準だけ決めておいてあとはセラピストと被験者に任せるという形になっているそうだ。
 「科学的」と言われれば、しっかりとした理論があって、理路整然とした実験・観察に基づいたデータの裏づけがあって、確実なもの、というイメージがある。そうでないものは「非科学的」。確実ではない…のだとしたら、心は、心理学はどうなのだろうか。河合さんと茂木さんの科学への鋭い眼差し・見解に、今まで自分が抱いてきた「科学的」なものと「非科学的」なものを線引きしてしまうことへの危うさを感じました。ドキリとします。

 第2回の対談では、河合さんの京都のオフィスで、茂木さんが箱庭をやってみる。茂木さんは大学時代に精神分析に興味を持ち、箱庭を継続してやっていたことがあるそう。茂木さんの箱庭の続きを見たかった、そのお話を聞きたかったなと思います。河合さんが急逝してしまったので、叶いませんでしたが…。

 初めは、河合さんが脳について茂木さんに話を聞くはずだったのが、茂木さんが河合さんの心理療法について話を熱心に聞いたり、河合さんが茂木さんの話をうまく引き出したり…。そして脱線やジョークも。脳と心の不思議に惹かれると共に、この2人のお話そのものにもぐいぐいと引き込まれる本でした。

 脳と心に対する疑問は、きっとこれからも持ち続けると思う。グルグルと。わからないからこそ、面白い。


・参考:以前読んだ茂木さんの著書:すべては音楽から生まれる
 ↑脳科学のお話もありますが、タイトルどおり音楽…クラシック音楽、特にシューベルトについて。
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by halca-kaukana057 | 2011-12-23 23:53 | 本・読書

到達点は同じなのに

 最近ちょっとした出来事で、思ったことを。

 以前記事にも書いた気がするのですが(あとで探します)、誰かと意見が異なることで落ち込むことがあります。人それぞれ、意見が異なるのは当たり前。でもそれが親しい人だったり、親しくなりたい人だったり、尊敬している人だったりすると、ショックを受けます。

 では、意見が同じならいいのか。そうではないのかもしれない。そう思うことがありました。その人と意見は同じ、結論は同じ。しかし、その意見に至るまでの過程、考え方、感情・想いに、同意出来なかった。その考え方は…ちょっと違う、私はそうは思わない、と。最終的な意見は同じなのに…。とても奇妙な、不思議な、そして複雑なものを感じました。

 誰かと”全く”同じ意見・考えというのはあり得ない。だからこれは、当然のことといえば当然だ。それなのに、少しの(私は少しとは思えなかった)違いで、違和感を覚える。

 私にとって衝撃的なことだったので、書きとめておくことにしました。これから、深めてみたいと思います。(年内にやることを終わらせて、年が明けたら…。ああなんでこんなに忙しいんだ12月!)
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by halca-kaukana057 | 2011-12-19 23:49 | 日常/考えたこと

心の中にあるものという”引き出し”から

 昨日、twitterでぼそりぼそりと書いていたことを、深めてみようと思います。このまま、日付やタイムラインに”流して”しまいたくない想いも込めているものなので。まずは引用します。きっかけは、ピアノの練習を久しぶりにしたら、全く弾けない状態になっていてショックだったことでした。


久しぶりにピアノの練習を。しかし、全く弾けない状態になっていた。12月は練習時間を作るのが厳しいなぁ。(このまま、遠ざかってゆくのだろうか…)
posted at 2011.12.14 17:12:18



(自分の心の中にあるものを、取捨選択、仕分けなんて出来ないよ。どれも大事だ。どれも大好きだ。)
posted at 17:16:04

(その時によって、特に集中して取り組むものはある。それで、他のものには興味がなくなったように外から…客観的に見た自分からは見えると思う。でも、心の中にはあるんだと、実感する時が必ずある)
posted at 17:18:36

(ツイート続き。自分の心の中にあるものを、簡単に取捨選択、仕分けできない理由。どれも大事でどれも大好きであると同時に、それらをきっかけに知り合えた・出会えた・親しくなれた方々がいて、その方々もかけがえのない存在・繋がりだから。もし自分から切り離したら、その縁も途切れてしまう)
posted at 21:17:52

(全てがいい出会いだったとは限らない。苦い、思い出すとモヤモヤする、あまり思い出したくないものもある。でも…好きなものをきっかけに会話して楽しかった思い出もある。ただ、この点については、思い出の中では生きてはいけないので、複雑ではある。)
posted at 21:21:23

(それから、そうだとは断定したくないけれども、かつては楽しく対話していたけど、今現在疎遠になりつつある方もいる。悲しいことに、既に疎遠になってしまった方もいる。非常にかなしい。その方々の都合なら、仕方ないけど…)
posted at 21:24:56

(辛いこと、苦い思い出、かなしい縁の途切れ…。そんなこともあるけれど、自分の心の中にある沢山の大事な、大好きなものを持ち続けること、そしてそれに付いて誰かと語り合えることは、本当に有難いことだと思っています。完全に独立して存在しているものなんてないと思う、きっと。以上失礼)
posted at 21:28:57


 以上が、該当する昨日のツイート。私は、本当に何にでも興味を持ち過ぎる。それは、ボジティヴに考えれば好奇心旺盛。ネガティヴに捉えると、気が散りやすい。興味を持って、実際に取り組んでみるのはいいけれども、自分という器から溢れ出してしまっているような状態になることも。自分が出来ることには限界がある。やりたいこと・趣味も新しいものを取り入れるためには、今までのものを捨てなければならない…という文章を時々見かける。その通りだとは思う。でも、私は捨てられない。大掃除の時に要るものと要らないものを仕分けて、要らないものはゴミ袋にポイポイ入れるようなことは出来ないよ!と感じている。

 時間は限られている。自分の出来ることもそんなに多くない(と限定・断定してしまうことはあまりしたくない。「可能性」というものがあるから)。また、その時、重点的に取り組みたいものはある。例えば、先日の皆既月食なら、久しぶりの皆既月食の観望チャンスを逃すわけにはいかない。他のやりたいこと・好きなこともあるけれど、皆既月食は先日12月10日に観られる日が限られている。だから、月食の観測・観望に集中する。自分の中の、宇宙天文の部分の引き出しを開ける。音楽を聴く時は、音楽の部分の引き出しを。引き出しと言っても、それぞれが独立しているわけではない。例えば、読書の引き出しを開ける時、その本は何の本か。他の引き出しも一緒に開ける。また、ある音楽作品を聴いて、その作品が何かの映画に使われているとか、何かの影響があって作曲されたものだとかいう場合も、他の引き出しも一緒に開ける。そして、それぞれの引き出しは奥のほうで、他の引き出しと繋がっていることもある。他のものが混ざったら引き出し…仕切る箱じゃないだろうと思われるかも知れない。でも、きちっと仕切り、仕分けたいわけではないので、それでいい。寧ろ、ひとつの引き出しを開けたら関連するものが一緒に出てくる方が楽しいし、便利でもあると思う。

 最近は、ピアノの引き出しをあまり開けていない。そのため、久々に開けて練習してみたらひどいことになった。この忙しい12月は、ピアノの引き出しを開けることは難しいだろう。外から自分を見ると、その引き出しがなくなったように感じるかもしれない。でも、私の中には、ピアノの引き出しは確実に存在している。「ピアノを演奏する」引き出しを開けることは無くても、「ピアノ曲を聴く」引き出しを開けることで、「ピアノを演奏する」引き出しの中にあるものが一緒に出てくる。完全ではないけれど…。落ち着いて、心に余裕を持って鍵盤に向かえるようになったら、「ピアノを演奏する」引き出しを開けよう。その日を楽しみにしていよう、と思っている。


 そして、その引き出しは自分のものだけではない。それらの引き出しを持っていることで、同じ引き出しを持っている人と知り合い、親しくなる。引き出しを共有することも出来る。そうなると、その引き出しそのものも大事なのだが、一緒に共有できる人・存在がいることも、とても大事な、かけがえのないものになる。その引き出しをなくしたら、その繋がりも一緒に途切れてしまうと不安になることもある。だが、引き出しを共有し続けてゆくことで、人間関係も広がり、深まる。”引き出しだけ”の繋がりの存在ではなくなる。これは、本当に有難いことだと思っている。

 その中で、時に辛いことや、苦い思い出もある。一番辛い、かなしいと思うのは、疎遠になってしまうこと。これは本当にかなしい。自分や相手の都合・生活の変化など、仕方のない場合もある。だが、疎遠になりたくないからコンタクトを取ろうとする。その時どうコンタクトを送ったら、取ったらいいか、わからない。ちょっとしたメールや手紙で近況報告をしたら、押し付けがましいと思われないだろうか、嫌だと思われないだろうか、などと考えてしまい、手が止まってしまうことも少なくない。もう途切れてしまった繋がりもある。これが自然の流れで仕方がないと思うけど…いつかまた、何らかの形で、語り合えたら、引き出しを共有できたらいいなと希望は持っている。持っていたい(”しがみつくような希望”ではなく)。

 自分の心の中にあるたくさんのものは、自分の中の様々なものと繋がり、他の誰かとも繋がっている。完全に独立して存在しているものなんてないんじゃないかな、と思います。それらを心の中に持ち続けること。少しずつでも温め続け、磨き続けること。そして、それらについて誰かと”語り合うこと”(会話・対話であり、”一方通行な話”とは違う)・”共有すること”、”共感すること”が出来たら、とても嬉しい。有難い。

 そう思うので、やっぱりポイポイと仕分けは出来ません。こうなったら、自分のこの性格・習性を思いっきり楽しんで、追求してみようか。

・関連記事のようなもの:温め続けて、諦めないで
 ↑ピアノ練習について、こんなことを考えた記事がありました。忘れていた…。読み返して、元気が出てきました。失ったわけじゃない。今は見えにくくなっているだけなんだ。
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by halca-kaukana057 | 2011-12-15 22:28 | 日常/考えたこと

生きること学ぶこと

 各出版社の夏の文庫フェアのリストに入っていて、気になった本です。タイトルからしてツボでした。


生きること学ぶこと
広中 平祐/集英社・集英社文庫

 著者の広中平祐さんは、数学者。”特異点解消”に関する研究・論文で、「数学界のノーベル賞」と呼ばれるフィールズ賞を1970年に受賞。広中さんが、子ども時代から、数学の道を志した学生時代、アメリカへ留学、そして数学の中でも代数幾何に重点を置き、さらに未解決の問題とされていたどんな次元の特異点をも解消する定理に取り組む。そして、その定理を発見・つくりあげるまでのことを、広中さんご自身の「学ぶこと」「創造すること」を中心に書かれているエッセイです。

 この本を読むまで、恥ずかしながら広中さんのことも、特異点解消の問題についても知りませんでした。1970年代にフィールズ賞を受賞した日本人がいたことすらも知らなかった。特異点とは何かについても、とっつきやすく書かれています。私は数学は苦手なのですが、「数学ガール」シリーズなどの数学に関する本を読むのは好きです。さらに、広中さんの半生を振り返った自伝や、そこから学んだこと、考えたことがとても興味深く、難しい内容でしたがじっくりと読みました。

 数学者たちの間でも絶対に解けないと考えられていた特異点解消の定理を発見し、フィールズ賞を受賞した数学者なのだから、とんでもない天才なのだろう、と思いきや、挫折体験や学問で苦労した経験が多く語られます。数学を志し、数学で生きてゆこうと決断するまでも、様々な失敗や試行錯誤があった。でも、それが後から生きてくる。私自身、迷うことが多いのですが、心強い言葉に励まされました。

 興味深かったのが、「仮説」を立てること。日本の学生に「君たちはどういうことを研究しているのか」と尋ねると、「代数を勉強しています」など今していることを答える。一方、アメリカの学生に尋ねると、それぞれの持っている仮説を説明する。仮説を立てて、色々演繹してみて、ダメなら仮説を変えてまた取り組む。日本の学生の場合はまず何か特定の分野を勉強して、ダメなら方向を変えて、新しい分野に決めていけばいいと考えている。自分の分野をまず決めるのではなく、「仮説」を立てて、それに合った分野を決めて探究してゆく。初め立てた仮説がダメでも、失敗しても(大抵は失敗するそうだ)、そこからまた新しい発見が得られる。なるほどと思いました。私も学生時代、自分はこの分野に興味があるからその分野に進んで、その中からさらに興味のあることを絞って取り組んでいました。現在、研究職ではありませんが、やはり何かをする時は分野をまず決めて、その中で考えることが多い。でも、それでは視野が狭くなってしまう。また、ひとつの分野ではどうしようもない問題に直面するかもしれない。まず仮説を立てて、演繹してゆく方法なら、いくつかの分野を横断して取り組むことも出来る。これは研究職だけでなく、一般の仕事にも当てはまると感じました。失敗してしまうかもしれない…という不安はあるけれども、勇気を持って、まずは仮説を持ってみる。何がしたいのか、何をどうしたいのか考えて、自分なりの考えを持って先へ進んでみる。面白いなと思いました。今、実践してみているところです。

 また、「ウォント(want:欲望)」と「ニーズ(needs:必要)」の違いも。似ているような言葉だが、「ウォント」は自分の中から出てきた必要性。「こんなものをつくりたい」「この学問をやりたい」「この仕事に就きたい」という意志が、創造を支えてくれる、と。これも興味深い。広中さんは、この本で、子どもの頃から出会った様々な人々についても語っています。両親、兄弟、親友、数学者たち…。時に厳しいことを言われ、落ち込んだり頭に来たりすることもあるが、謙虚に出会った人々の言葉や想いを受け止めている。受け止めて、学んでいる。この真摯さにも、いいな、見習いたいなと思いました。

 学生の頃に読みたかった本だと感じつつも、社会人になってから読んでもとても興味深い本でした。「生きること」も、「学ぶこと」にも、人生のどこで終わり、ということは無いのだから。生きている限り、学ぶこと、そして創造することも続いていくんだ。

 巻末の解説は、なんと小澤征爾さん。広中さんと小澤さんはフランス留学時代に知り合い、親交が深いのだそう。広中さんは、学生時代、クラシック音楽好きの友達がいて、彼の家に行くといつも何らかのレコードを聴いていた。また、ピアノを演奏していたこともある。そんなこともあって、小澤さんと仲良くなり、小澤さんの指揮するコンサートにも足を運んでいたそうだ。小澤さんの解説を読んでいて、何だか嬉しく、心温まりました。
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by halca-kaukana057 | 2011-12-01 22:43 | 本・読書

「痛い」と表現すること

 先日読んだ、梨木香歩「僕は、そして僕たちはどう生きるか」で、自分の経験に関連があって印象に残っている箇所がある。そこから、ちょっと考えてみようと思う。

 物語の最後のほう(でも、物語の根幹の流れには触れませんので、ネタバレさせません)で、コペル・ユージン・ノボちゃん・ショウコ、そしてショウコの友人のオーストラリア人のマークはユージンの家の庭で焚き火をして話をしている。その話の中で、「人から妨害を受けたり、傷つけられたり」することについて語る箇所がある。もし、誰かにそうされたら…マークは「足を踏まれたら、痛いって言えばいい。踏んでる方はそのことに気づいていないかもしれない」と。ショウコもそれに同意するが、一方でユージンは「黙って踏ませとくよ。めんどうだし」と言う。それに対してのショウコの言葉に、どきりとしました。以下引用します。
 「黙ってた方が、何か、プライドが保てる気がするんだ。こんなことに傷ついてない、なんとも思っていないっていう方が、人間の器が大きいような気がするんだ。でも、それは違う。大事なことがとりこぼされていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだってことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。あんたが踏んでんのは私の足で、痛いんだ、早く外してくれ、って言わなきゃ」
(254~255ページより)

 続けて、「言っても外してくれなかったら?」の問いには
「怒る。怒るべきときを逸したらだめだ。無視されてもいいから怒ってみせる。じゃないと、相手は同じことをずっと繰り返す」
(255ページ)

 私もユージンと同じように、「黙って踏ませとく」、踏ませておけばいいと思っている。別に踏まれても痛くなんかない。傷ついていない。このくらい、我慢する。気にしない。そう思ってきた。

 先日も、そんなことがあった。職場で雑談していた時のこと。私の好きなものに関する話になった。私はそれを「好き」と言ったことはなかったし、その時もまだ言ってはいなかった。その時、相手はその私が好きなものに対して、「嫌い、受け付けない」と言った。えっ?私は驚いた。思わず「えーっ」と茶化した声で反応したが、心臓はドキドキバクバク。頭は混乱し始めた。かなしい気持ちがじわじわと溢れてきた。私の心の中は大混乱していたが、相手は私に聞いた。「好きですか?」と。私は、動揺を見抜かれないように「好きですよ」とだけ、さらりと答えた。それ以上の話はしないように努めた(でも相手がそれに関することを色々話すので、軽く答えてはいた)。それ以上話をしたら、この動揺が、ボロがでてしまうだろうから。

 別に、その時の話し相手に、それを好きになって欲しいとは思わない。人それぞれ好き嫌いはある。自分の好きという気持ちを強要する気は全くない。その相手とは職場だけでの関係でもあるから、深入りする必要はない。でも、相手は私がそれを好きだと知らなかったが、面と向かってストレートに「嫌い」と言われたら、どうしても動揺してしまう。その日はとにかく早く仕事が終わってほしい、早く帰りたい、ひとりになりたい…そんな気持ちでいた。

 帰宅してから、そのことをtwitterに書き込んでいたりしていたら、何年も前のことを思い出した。大学に入学した頃の話だ。私は、ある人と友達になった。同じサークルに入った、という縁だ。その人はとても快活で、年上同い年関係なく初対面の人とも臆せず話し、すぐに場に馴染んでいた。私はそれまで、そういうタイプの人と友達になったことはなかった。同じクラスにいても、距離を置いていた。それが同じサークルに入ったことで、友達になった。いや、この時はまだ”友達”と捉えていなかった。

 ある日、私とその人で話をしていて、その人が大好きだと言うものの話になった。私はそれがあまり好きではなかったので「あまり好きじゃない、嫌い」と言った。するとその人は怒った。「人の好きなものに対して、面と向かって嫌いって言うのはどうかと思う」。私はその時、自分の思ったこと、事実を言ったまでなんだけど、何故怒られなきゃならないんだ…。その人だって、普段は何でもストレートに話しているのに…。この人、よくわからない。私は不機嫌だった。でも、それから、私はとても時間がかかったが、本音を言い合うようになり、”友達”と呼べる…いや、”親友”とも呼べる仲になった。今も、交友は続いている。私にはない長所をたくさん持っていて、いい刺激を受けている。その人との友情が続いていることに感謝している。

 何かを好き(もしくは嫌い)であること、そしてそれを表現することは、その人の個性でもある。自分とは別の存在だけれども、好きなものは自分の一部のように感じている。例えば、人ならその人が病気になったら心配で、早く治って欲しい、元気になって欲しいと思う。その人が嬉しいなら、私も嬉しくなる。そして、その人が否定されたら、かなしくなる。自分も否定されたように思ってしまう。そう、職場で私の好きなものを「嫌い、受け付けない」と言われた時、私は自分を否定された気持ちにもなった。だから、酷く動揺し、かなしくなった。

 あの日、大学で出会った友達は、私の発言をダメだと怒ってくれた。「僕は~」のショウコのように、足を私に踏まれて、痛いと言った。踏んだら痛いだろう、「嫌い」と面と向かって言ったら傷つくだろう、と。

 そのことを思い出して、私は、傷ついたことを隠そうとしたことは、それでよかったのだろうかと考えている。自分がそれを「好き」だと熱弁はしなくてもいいから、「私は好きですよ。知らなかったから仕方ないですけど、人に面と向かって”嫌い、受け付けない”と言うことは、どうかと思いますよ」と言うべきだったのだろうか。私に、その勇気はない。動揺しながら、そんなことは言えない。それよりも、「怒るべきときを逸してしまった」のだから、もうどうしようもないのだが。そして、大学時代からの友達の、勇気は物凄いものだったと今になって、実感した。

 今度、また同じような場面に出くわしたら…言えるだろうか。痛い、と。

・過去記事:僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

梨木 香歩 / 理論社


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by halca-kaukana057 | 2011-11-28 23:01 | 日常/考えたこと

僕は、そして僕たちはどう生きるか

 梨木香歩さんの作品は、出てからしばらくしてから読むことが多いのですが、この本は今年出たばかり。気になっていた(梨木さんの作品は全部気になりますが)ので、早速(というわけでもないですが)読みました。


僕は、そして僕たちはどう生きるか
梨木香歩/理論社/2011

 いつもならここであらすじを書くのですが、書けません。まとめようがありません…。植物や虫、生き物に興味があり土壌採集をしている14歳の少年の僕。「コペル」と呼ばれている。「ブラキ氏」という愛称の犬を飼っている。コペルの叔父で染織家のノボちゃん。コペルの友人で、小学6年から学校に来なくなったユージン。ユージンの従妹でひとつ年上のショウコ。ノボちゃんが染織のためのヨモギを採るために、コペルとノボちゃんはユージンの家の庭にやってきた。ユージンの家の庭はとても広く、様々な植物が生い茂っている。庭と言うよりも森。その庭で、コペルとユージンはショウコが来たことがきっかけであるものと出会う。そして4人は様々なものに思いを巡らし、考える。


 タイトルは哲学のよう。物語は、自然豊かな庭で、4人が植物に触れながら、様々なことに思いを巡らす。そして、あるものに出会う…。14歳でそれぞれの家庭の事情でひとりで暮らし、賢くもあるコペルとユージン。自然豊かなユージンの庭、染織家の叔父さんという設定に、「西の魔女が死んだ」・「からくりからくさ」か、もしくは川端裕人さんの作品の雰囲気かと(某所のレビューを読んだら、同じことを思った人がいて驚きました!)。物語は淡々と、でも何か強いメッセージが込められているのは読み取れるけど、核心がなかなか出てこない。一体どこに向かうのだろう…と思っていたら、ショウコの登場で出会うことになったあるものが更に強いメッセージを発してくる。そのものや、コペルとユージンの過去が語られ、物語の核心が。それまでばらばらに見えていた、物語のエピソード・要素の数々が最後に「ここに辿りつくのか!」と息をのみながら読み、最後の1ページで涙が止まりませんでした。

 この作品では、デリケートな話題・問題にも直球ストレートで踏み込んでいる。普段、私はこの作品に書かれているような話題・問題を語るのは避けている。語った相手や場所、内容で、場が大混乱になるのを恐れているからだ。自分の考えをはっきりと主張する自信もない。なので、書かれている内容を読んだ時はどきどきした。私の苦手なところへ、どんどん踏み込んでいく。どうしようと思いつつ、でも読むのを止められなかった。きっと、この作品の根底にある”考える”ことを、対象は何であれやめたくない、停止したくないと思ったからだろう。あと、あるものが何なのかや、4人が語ることも、気になって。

 作品全体からも、個々のエピソードやセリフからも、様々なことを読み取れる。読み取れるだけじゃない。梨木さんは、「考えてみよう」「行動してみよう」と読み手にそっと伝えようとしているのだろう。私は、時にユージンやあるもののようになってしまうが、全体的にはコペルに近い。コペルが、「カッコに括っていたもの」に気づいた時、自分も同じようなことを経験した覚えがある…といろいろと思い出してしまった。でも、そこで落ち込んでばかりもいられない。「考えてみよう」「行動してみよう」と声がする。自分の力で。でも、ひとりではない。

 今日一気読みしたのですが、何度でも読み返したい。難解なところも多いので、読み返したらまた考えることもあるだろう。また、作品全体だけでなく、個々に気になったところを抜き出して考えたい。既に考えていることがあるので、そのうち記事にすると思います。

 そういえば、タイトルと、コペルに見覚えがある…と思ったら、巻末の参考文献に「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎/岩波書店)が。これでした。ちゃんと読んだことが無いので、この際だし読もう(また読む本が増えました…嬉しい悲鳴?)。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

吉野 源三郎 / 岩波書店



 ポプラ社から、ジュニア版も出てます。

君たちはどう生きるか (ジュニア版 吉野源三郎全集)

吉野 源三郎 / ポプラ社


君たちはどう生きるか (ポプラポケット文庫 日本の名作)

吉野源三郎 / ポプラ社


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by halca-kaukana057 | 2011-11-18 22:29 | 本・読書

青い城

 「赤毛のアン」シリーズ、「エミリー」シリーズで知られるルーシー・モード・モンゴメリ。モンゴメリ作品といえばこの2シリーズだと思っていたのですが、他にも多くの作品があり、日本語で出版されているというのを少し前に知りました。なんと!!
 ちなみに、「赤毛のアン」シリーズは高校生の時にハマり、アンのような生き方ができればいいなと密かに思っていました。でも、シリーズ途中まで止まってしまっています…。どこまで読んだっけ…?


青い城
モンゴメリ:作/谷口由美子:訳/角川書店・角川文庫/2009(単行本は1980年、篠崎書林より)

 ヴァランシーは、29歳の雨の降る誕生日の朝を、涙とともに迎えた。オールド・ミスであること、やせっぽちで身体が弱く美人ではないこと、厳格でヴァランシーを何から何まで管理する母・フレデリック夫人の存在、おせっかいで古いしきたりに縛られているスターリング一族の人々にオールド・ミスであることを嘲笑されること、スターリング一族の一人であるひとつ年下のオリーブは美人で常に比較されること…。自分の意志で何かをしたいと言っても、フレデリック夫人やスターリング一族の人々にとやかく言われてしまうので、大人しく従うしかなった。それでも、ヴァランシーは自身の空想上の理想の場”青い城”と、自然を活き活きと描くジョン・フォスターの本を心の支えにしていた。誕生日のその日、ヴァランシーはずっと気になっていた心臓の痛みをトレント医師に診てもらうことにした。しかし、トレント医師は急用で、ヴァランシーの診察中に慌てて出かけてしまう。
 数日後、ヴァランシーのもとにトレント医師から手紙が届く。ヴァランシーの心臓のことについて書かれていたのだが、その内容は余命は1年。手紙を読んだヴァランシーは、限られた時間を生きるために、あることを決意した…。


 29歳で独身…今では珍しくもないことですが、20世紀初頭の当時ではオールド・ミス。更に、身体が弱いことを理由にヴァランシーを厳しく管理する母・フレデリック夫人と、噂好きでおせっかい、体裁や古いしきたり、かつての栄光に縛られているスターリング一族の存在が、ヴァランシーを憂鬱にさせる。ヴァランシーとは正反対な、スターリング一族のアイドルである完璧な美人・オリーブの存在も。こんな家にいたら、私も憂鬱だろうなぁと感じます。

 そんなヴァランシーを変えたのが、トレント医師からの余命宣告の手紙。心臓の病気で、生きられる時間はあと1年。オールド・ミスであること、憂鬱な環境で誰かに従うしかない自分…。これまで、誰かの陰に隠れて、むなしく生きてきた。自分に価値を与えるため、誰かを喜ばせようと生きてきた。でも、その努力はどれも無駄に終わった。ならば、これから死ぬまでの時間は、自分のために、自分を喜ばせるために生きよう。誰かの機嫌をとったり、嫌々従ってばかりいるのはやめよう…!この決意が、ヴァランシーを変えてゆきます。

 大人しくビクビクして生きてきたヴァランシーの変化に、スターリング一族の皆は驚くばかり。しかし、ヴァランシーは生きがいを感じていた。更に、ヴァランシーはあらぬ噂で村八分にされているアベルと話し、病気で苦しんでいる娘・シシィの看病のためにアベルの家の家政婦になる。体裁を大事にするスターリング一族にとって、村八分にされているアベルとシシィと親しくすることは許されないこと。しかも、同じくあらぬ噂を立てられているバーニイ・スネイスともヴァランシーは親しくなる。人々が話す噂ではなく、その人と心から話すことで、噂は噂でしかないことに気づくヴァランシー。ここから物語は更に急展開してゆきます。

 ヴァランシーの決意とその後の生き方に、共感します。私も人の顔色を伺って行動してしまうことがある。それは、本当にその人のためなのだろうか。ただ、勇気を持って行動できない弱さなのか。牢屋のようなスターリング一族から離れ、アベルやシシィ、スネイスとともに活き活きと暮らすヴァランシー。これこそまさに”生きる”姿。余命一年という極限の状況から、生き返ったようなヴァランシーの姿に、オリーブとは違う”美しさ””強さ”を感じます。

 ヴァランシーが持っている”青い城”の空想も、モンゴメリらしい。「エミリー」シリーズで言えば、「風のおばさん」かな。作品中にも、これぞモンゴメリ作品!と感じるユーモアや皮肉がたっぷりと詰まっています。物語の展開とともに、モンゴメリらしい豊かな表現も楽しくて、どんどん読み進めてしまいました。

 しかし、ヴァランシーの人生はこれで終わりではなかった。後半、まさかの展開の連続に驚きっぱなしでした。冒頭で飾りのようにしか出てこなかったエピソードが、最後に大きな意味を持つものになるなんて。

 帯に書いてある通り、純粋なラブ・ストーリーとしても面白いです。が、私は自分の生きる道は、自分で切り拓くことを決意し実行したヴァランシーの姿に、強く惹かれました。

 他にも、「赤毛のアン」や「エミリー」ではないモンゴメリ作品が数多く出ているのだそう。読みたい。その前に、中途半端になっている「赤毛のアン」シリーズと、アニメ化(NHK教育「風の少女エミリー」)でその存在を知り原作を買ったものの途中までしか読んでいない「エミリー」シリーズも読みたいなぁ…。
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by halca-kaukana057 | 2011-10-21 22:49 | 本・読書


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