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私にとって、「感想」を表現するって、何だろう

 先日読んだ本「羊と鋼の森」(宮下奈都)で思ったこと。感想記事にも少し書きました。この本を読んで思うことは色々あった。ピアノのこと、ピアノを弾いていた時のこと。そして、音楽のこと。
・その感想記事:羊と鋼の森
 上記記事から引用します。

 以前、今もまだ続いているが、聴いた音楽の感想が出てこなくなった時期があった。感想を出すのが怖いのだ。外村が調律がうまくならなかったらどうしよう、怖いと思ったように。この演奏は、「いい演奏」か「悪い演奏」か、叩き切るように判断できなければならないと思って、それがわからず、感想を言うのが怖くなった。感想が他の人…ズバッと感想を出している、しかも説得力のある感想を出している人と違えば、自分は間違っていると思えてしまう。その作品を初めて聴く、聴いたことがなくて、判断できないこともある。いい曲だとは思ったけど、感想は…?「いい」「よかった」、でいいの?それだけだと足りない、弱いのではないか。判断基準が自分ではなく、他の人になってしまい、音楽は聴いても、その感想を出すことはなかった。そもそも自分に判断する権利はあるのか。音楽経験も少なく、叩き切るような感想を出せるような説得力も知識も読解力もない。音楽を聴くのが辛かった時期を思い出した。

 過去にも、こういうこと、似たことについて、思うことがあって、ブログに書いたことがありました。
「優劣」はどこから来る?(2014.3.16)
読解大会、もしくは読解合戦(2015.3.5)
表現することが「わからない」(2016.1.5)

 かなり前から定期的に?思っていることですね。まだ、解決できていない、答えを出せていない、トンネルを抜けきれてない。

 これらを読み返して、「羊と鋼の森」も読み返して、考える。「羊と鋼の森」でこんな箇所がある。主人公の外村は駆け出しのピアノ調律師。高校生の時、偶然ピアノの調律に立ち会って、初めてピアノの調律に触れて、調律師になりたいと思った。山奥で生まれ育ったため、それまでピアノについて何も知らなかった。ひたすら勤務している楽器店のピアノを片っ端から調律し、先輩調律師について調律の現場で学び、夜はピアノ曲のCDを聴いてピアノ漬けの日々を送っている。そんな外村が生まれ育った環境ゆえ町の子どもたちなら当然のように触れられるものを、「あきらめる」「素通りする」ことが多かったと回想するシーン。
 
 あきらめようと思えるまでに時間がかかったものが、ひとつだけあった。絵だ。僕には絵がわからなかった。(中略)きれいだな、おもしろいな、と思うことはあっても、そこまでしかたどり着けなかった。きれい以外の絵のよさがほんとうにはわからない。先生からは好きな絵を一枚見つけるよう言われたけど、それも違うんじゃないかと思った。色がやさしいとか、なんとなく雰囲気が好きだとか、そういうことで絵を観ては間違うような気がした。
 もしかしたら、それでよかったのかもしれない。この絵が好きだと思えればそれでいい。いい気分になれればそれでいい。絵がわからないとか、そんな観方じゃいけないとか、自分で自分を窮屈にすることなどなかったのだろう。でも、僕はあきらめたのだ。絵は、わからない。わかったようなふりをしてもつまらない。
(95ページ)
 (中略)
 好きだとか気持ちがいいだとか、自分の中だけのちっぽけな基準はいつしか変わっていくだろう。あのとき、高校の体育館で板鳥さんのピアノの調律を目にして、欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった。わかりたいけれど無理だろう、などと悠長に考えるようなものはどうでもよかった。それは望みですらない。わからないものに理屈をつけて自分を納得させることがばかばかしくなった。
(96ページ)

 外村の絵の観方は間違いではないと思う。自分で自分を窮屈にしていると思う(大ブーメラン、自分もです)。でも、外村には「わからなかった」。「わかったようなふりをしてもつまらない」。自分の観方は間違っている。そんな考えから抜け出せなかった。この外村が悪いわけじゃない。どんなに間違ってない、それでいいと認められたとしても、自分で納得がいかなければ本気になれない。自分に無理強いしても辛いだけだ。
 でも、外村にとって、ピアノは違った。わかるとかわからないとかという基準のものではない。わかりたい、あきらめたくない。自分にとって要るものはこれ、ピアノだ。

 私も、音楽にしろ絵にしろ本にしろ、感想が出てこなかったのは「わかったふり」をするのが怖かったのだと思う。そんな観方、聴き方、読み方じゃいけないと、自分を追い詰めていたんだと思う。何がきっかけで…他者の優れた(これも私の主観としか言いようがない)感想に比べて自分はここまでしか読み込めないのか、と落胆したこと。感想を出すなら、もっと立派で説得力のある、独創性のある、誰が読んでも面白いものを…。これは、理想ではあるけれども、「自分の中だけのちっぱけな基準」じゃないかとも思う。感想を書いて、何をしたいのか。かつてはツイッターをしていて、共有を意識していたけれど、それはもう終わった。このブログでは、コメント欄も閉じている。誰かと感想を交わしあいたい…自分の感想もままらないのに、誰かの感想を受け止める心の余裕は今の私にはない。まだ、ここのコメント欄は閉じていたい(他にも理由はありますが)。自己顕示欲…少しはあると認める。ないわけじゃない。でも有名になりたいとかは思わない。ただ自分が何を考えているか、「何処」にいるのかを記したい。その際、ブログで公開する必要はあるのか、自分だけのノートに書くだけでもいいんじゃないのか、と思うようにもなってきてはいる。読み返す時、過去ログを探しやすい、公開することを意識するから、文章や、思考のまとまりに気を遣うなどの利点はある。コメント欄は閉じているけど、何かのきっかけで立ち寄った誰かが、同じ本を読んだり、音楽を聴いたりして、この人はそう思ったんだな、と読んでくれれば嬉しい。同じことを思った、それは思いつかなかったなどと思ったらもっと嬉。

 好きなものをとにかく語りたくて、始めたブログ。今もその気持ちは変わらない。ものすごく好きなものに出会えたら、それについて語りたい。共有とか共感とか関係ない。「自分の中だけのちっぽけな基準」「自分で自分を窮屈にする」ということは考えなかった。純粋な気持ちが前に出ていたけれど、書けば書く程、内容にも凝るようになる。それは、文章や読解の面の成長のあらわれだと思う。前よりも沢山読んだ、聴いたのだから、成長していって当然だと。過去の感想を読んで、今のものと比べて、劣化したと思うことがある。記事数、更新頻度が減って、衰えたと思ってしまう(辛い)。

 そんな状態ではあるけれど、本は読み続けているし、音楽も聴き続けている。面白い、いいなと思うものは次々出てくる。あきらめたくない。わかりたい。無理強いではない。好きだから。接して、やっぱり好きだと思うから。

 感想が出てこない、書けない。どうしたらいいか。
 ひとつ。今はもう他の人の感想を前もって読むことはなくなったのだが、まずは自由でいいと思う。恐れずに。自分の思ったことを、まず言葉にしてみたらいいと思う。
 ふたつ。私が劣等感を抱いているのは、読む本にしろ、聴く音楽にしろ、接したことのないものがとにかく多い。有名作品でも知らない、接したことがない、接したことはあるけど1回程度…経験値が足りない。とにかく沢山のものに接したい。クラシック音楽は大人になってから聴き始めた。ピアノは子どものころ習っていたけど、熱心ではなかったから、加点にならない。本も知らない作家ばかりだ。私はスタートが他の人に比べて遅いと思っている。だから、まず量を増やす。
 みっつ。言葉の語彙を増やす。多彩な表現ができるように、でもあるし、自分の中にある微妙な感情を、ぴったり当てはまる言葉を多く持っていたい。
 よっつ。「感想を書くため」と意識しない。意識すると出てこない。
 いつつ。関係ない、とバッサリ切り捨てない。どんなものも、どこかで何かしらに繋がっている。その繋がりがわかれば、読み解きも広がり深まり面白くなる。自分の接するものは、全て何かに繋がっている。
 まだありそうだけど、今はこの5つ。

 基準は自分がつくればいい。「こう思った」のなら、それが基準だ。基準はどんどん変化していくと信じて。言葉も、それにつれて変化、成長していく。鍛錬、修行だ。つらいこともあるけど、つらいことだけじゃない。楽しくて、好きだからやっている。つらい気持ちしか出てこなくなったらやめる。もし、そうなったら、このブログもやめる可能性があります。でも、今はそれは考えずに。自分で自分を窮屈にしない、難しくしない、つらくしない。

by halca-kaukana057 | 2018-05-13 23:00 | 日常/考えたこと

好奇心のまま「面白い!」と思ったことに突っ込むブログ。興味の対象が無駄に広いのは仕様です。


by 遼 (はるか)
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