2018年 10月 08日
ある小さなスズメの記録
以前読んだ本だが、ブログには書いていなかったことに気がついた。気のせいだった。せっかくなので再読して感想を。
ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯
クレア・キップス:著、梨木香歩:訳/文藝春秋、文春文庫/2015(単行本は2010)
1940年、第二次世界大戦中のイギリス、ロンドン。空襲の危機が迫る中、著者のキップス夫人(数年前に夫を亡くしている)は、対空対策本部の隣組支部で交代で空襲に備えていた。7月、任務から帰ったキップス夫人は、玄関先に生まればかりの瀕死の小鳥を見つけた。家につれて帰り、温め、あたたかいミルクを飲ませる看病を続けると、翌日の朝には小さな声で鳴いていた。それから、キップス夫人はこの小鳥、イエスズメを育てることになる。ある程度成長したら外へ放つつもりだったが、このイエスズメは、翼と足が曲がって十分に飛べる状態になかった。キップス夫人はそのまま、このイエスズメをクラレンスと名づけて育てることになった。クラレンスはキップス夫人に非常に懐き、空襲に脅える人々を癒す存在になった。また、クラレンスは感情豊かに振舞い、お気に入りのおもちゃで遊んだり、ピアニストでもあるキップス夫人のピアノ演奏に合わせて、巧みな歌を歌うようになった。終戦後もキップス夫人とクラレンスの日々は続いた。クラレンスの老い、最期の時まで…。
読んだ後、動物の言葉がわかり、動物と心を通わせる「ドリトル先生」シリーズを思い出した。「ドリトル先生」は物語、フィクションだが、こちらはノンフィクション。キップス夫人とクラレンスはお互いの言葉がわかるわけではないが、鳴き方や仕草で言いたいことを読み取れる。エサをねだる時、一緒に遊びたい時、一緒に寝たい時、興味を示しているものがある時。スズメはこんなに感情豊かなんだなと感じた。私も子どもの頃、セキセイインコを飼っていた。籠の外に出て遊びたい時や、新しいエサ(特に青菜)を持ってきた時の興奮はよくわかった。ただ、このクラレンスほどは懐かず、賢くなかった。生まれてすぐに育て始めただけではないと感じる。
クラレンスは翼と足が曲がっていた。が、成長するにつれて、うまく飛べるようになった。窓越しの外の世界に出会うこともあった。そこで、他の鳥に出会うこともあった。エサはキップス夫人があげていたが、いつしか飛んでいるハエを捕まえて食べることもあった。誰も教えていないのに、鳥としての本能を目覚めさせていく。その一方で、クラレンスはキップス夫人に甘え、気に入らないことがあると叱り飛ばし、ともに生きるパートナーとなった。動物と人間の超えられない溝があるはずなのに、クラレンスも、キップス夫人も、お互いを尊重している。不思議だとも思う。
ピアニストでもあったキップス夫人は、クラレンスの歌を楽譜に起こしている。ターンやトリルを習得し、それを日々練習していた。「小鳥はとっても歌が好き」という歌があり、私のセキセイインコもテレビから音楽が流れると、一緒に歌う、もしくは負けじと一生懸命歌っていた。だが、楽譜に起こせるような歌い方ではない。ピアノのある環境で、クラレンスの本能と才能も開花していったのだと思う。
クラレンスは後に、病気になり、そして老いを迎える。だが、ここでもクラレンスの生命力の強さをキップス夫人も、読者も実感することとなる。苦しむクラレンスのために効くような食材とアイディアを求めて鳥の医師を尋ねる。そのアイディアには驚いた。小鳥に食べさせてもいいのだろうか…とは思うが、効き目があったのだからいいのだろう…か。
クラレンスはヨーロッパに多いイエスズメ、日本のその辺にいるスズメとは違う種類だ。その他の理由でも、日本のスズメではこんなことはできないだろう。スズメでなくても、何かしらの動物を飼っている人は多い。飼っている動物との様々なエピソードはあるが、「ペット」ではなく、お互い生物として尊重し、愛情を注ぐ存在としてのクラレンスとキップス夫人の記録は、とても興味深いものだった。梨木香歩さんの訳も、そんな誇り高いクラレンスを感じさせるような文章です。
ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯
クレア・キップス:著、梨木香歩:訳/文藝春秋、文春文庫/2015(単行本は2010)
1940年、第二次世界大戦中のイギリス、ロンドン。空襲の危機が迫る中、著者のキップス夫人(数年前に夫を亡くしている)は、対空対策本部の隣組支部で交代で空襲に備えていた。7月、任務から帰ったキップス夫人は、玄関先に生まればかりの瀕死の小鳥を見つけた。家につれて帰り、温め、あたたかいミルクを飲ませる看病を続けると、翌日の朝には小さな声で鳴いていた。それから、キップス夫人はこの小鳥、イエスズメを育てることになる。ある程度成長したら外へ放つつもりだったが、このイエスズメは、翼と足が曲がって十分に飛べる状態になかった。キップス夫人はそのまま、このイエスズメをクラレンスと名づけて育てることになった。クラレンスはキップス夫人に非常に懐き、空襲に脅える人々を癒す存在になった。また、クラレンスは感情豊かに振舞い、お気に入りのおもちゃで遊んだり、ピアニストでもあるキップス夫人のピアノ演奏に合わせて、巧みな歌を歌うようになった。終戦後もキップス夫人とクラレンスの日々は続いた。クラレンスの老い、最期の時まで…。
読んだ後、動物の言葉がわかり、動物と心を通わせる「ドリトル先生」シリーズを思い出した。「ドリトル先生」は物語、フィクションだが、こちらはノンフィクション。キップス夫人とクラレンスはお互いの言葉がわかるわけではないが、鳴き方や仕草で言いたいことを読み取れる。エサをねだる時、一緒に遊びたい時、一緒に寝たい時、興味を示しているものがある時。スズメはこんなに感情豊かなんだなと感じた。私も子どもの頃、セキセイインコを飼っていた。籠の外に出て遊びたい時や、新しいエサ(特に青菜)を持ってきた時の興奮はよくわかった。ただ、このクラレンスほどは懐かず、賢くなかった。生まれてすぐに育て始めただけではないと感じる。
クラレンスは翼と足が曲がっていた。が、成長するにつれて、うまく飛べるようになった。窓越しの外の世界に出会うこともあった。そこで、他の鳥に出会うこともあった。エサはキップス夫人があげていたが、いつしか飛んでいるハエを捕まえて食べることもあった。誰も教えていないのに、鳥としての本能を目覚めさせていく。その一方で、クラレンスはキップス夫人に甘え、気に入らないことがあると叱り飛ばし、ともに生きるパートナーとなった。動物と人間の超えられない溝があるはずなのに、クラレンスも、キップス夫人も、お互いを尊重している。不思議だとも思う。
ピアニストでもあったキップス夫人は、クラレンスの歌を楽譜に起こしている。ターンやトリルを習得し、それを日々練習していた。「小鳥はとっても歌が好き」という歌があり、私のセキセイインコもテレビから音楽が流れると、一緒に歌う、もしくは負けじと一生懸命歌っていた。だが、楽譜に起こせるような歌い方ではない。ピアノのある環境で、クラレンスの本能と才能も開花していったのだと思う。
クラレンスは後に、病気になり、そして老いを迎える。だが、ここでもクラレンスの生命力の強さをキップス夫人も、読者も実感することとなる。苦しむクラレンスのために効くような食材とアイディアを求めて鳥の医師を尋ねる。そのアイディアには驚いた。小鳥に食べさせてもいいのだろうか…とは思うが、効き目があったのだからいいのだろう…か。
クラレンスはヨーロッパに多いイエスズメ、日本のその辺にいるスズメとは違う種類だ。その他の理由でも、日本のスズメではこんなことはできないだろう。スズメでなくても、何かしらの動物を飼っている人は多い。飼っている動物との様々なエピソードはあるが、「ペット」ではなく、お互い生物として尊重し、愛情を注ぐ存在としてのクラレンスとキップス夫人の記録は、とても興味深いものだった。梨木香歩さんの訳も、そんな誇り高いクラレンスを感じさせるような文章です。
by halca-kaukana057
| 2018-10-08 23:04
| 本・読書