2019年 12月 03日
もしも、詩があったら
偶然面白そうだと思った本。
もしも、詩があったら
アーサー・ビナード/光文社、光文社新書/2015
著者のビナードさんはアメリカ生まれの詩人。1990年に来日。その後、日本語での詩作を続けています。こう言ってしまったら失礼だと思うのだが、この本の日本語はとても上手く、巧みな言葉遣いをしている。外国人が著者であることに驚いた。日本人が何となく当たり前のように使ってしまっている日本語を、英語や欧米文化の視点も交えて丁寧に語っている。この本では英語の詩も日本語の詩も扱っているが、どちらの文学ももっとしっかりと学んでおけばよかったと思う。英語の文法も。構文が少し違うだけで、どう伝わるかの印象も変わってしまう。公共の場での外国人向けの英語表記も、文法としては間違っていないけれどもどう伝わるかを考えていないものだったりするそうだ。そういうことをもっと勉強しておけば、この本をもっと面白く読めると思う。いや、まだ遅くない。この本で勉強すればいい。
「もし」「if」という言葉について、古今東西の詩を取り上げて考えているのがこの本です。詩はたまに読みます。でも、文学の詩だけでなく、歌の詩だって詩だ。詩、歌だけでなく、シェイクスピアの戯曲や短歌・俳句、落語も出てきます。英語の詩は、ビナードさんの訳が読みやすく、すんなりと心に入ってきました。
詩は、役に立つのか。そんなことが「あとがき」に書かれています。
でも、私は、「もし」「if」はむしろ思考停止じゃないのかと思ってきた。過ぎ去ってしまった過去に「もし」と言ってみても過去は戻ってこない。歴史に「もし」は禁句だ(ビナードさんの高校時代の歴史の先生と同じ考えかも知れない)。あり得ない未来に「もし」と言っても現実には変わらず虚しいだけだ。「もし」なんていってみても無力だ。
私が使ってきた「もし」はネガティヴな意味だけだったのかもしれないとこの本を読んで思った。文学の世界には多様な「もし」「if」が溢れている。ラドヤード・キップリングの「もし」はとてもいい作品だと思った。
日本の歌の詩も出てくるが、吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」が出てきて笑ってしまった。そうか、あれも「もし」か。
「もし」「if」でこんなに語れるなんて。ビナードさんが言葉を、日本語を、身の回りを注意深く見ているからこそ引き出せる話がとても面白かった。ビナードさんの著作は多数。もっと読んでみたいなと思った。
もしも、詩があったら
アーサー・ビナード/光文社、光文社新書/2015
著者のビナードさんはアメリカ生まれの詩人。1990年に来日。その後、日本語での詩作を続けています。こう言ってしまったら失礼だと思うのだが、この本の日本語はとても上手く、巧みな言葉遣いをしている。外国人が著者であることに驚いた。日本人が何となく当たり前のように使ってしまっている日本語を、英語や欧米文化の視点も交えて丁寧に語っている。この本では英語の詩も日本語の詩も扱っているが、どちらの文学ももっとしっかりと学んでおけばよかったと思う。英語の文法も。構文が少し違うだけで、どう伝わるかの印象も変わってしまう。公共の場での外国人向けの英語表記も、文法としては間違っていないけれどもどう伝わるかを考えていないものだったりするそうだ。そういうことをもっと勉強しておけば、この本をもっと面白く読めると思う。いや、まだ遅くない。この本で勉強すればいい。
「もし」「if」という言葉について、古今東西の詩を取り上げて考えているのがこの本です。詩はたまに読みます。でも、文学の詩だけでなく、歌の詩だって詩だ。詩、歌だけでなく、シェイクスピアの戯曲や短歌・俳句、落語も出てきます。英語の詩は、ビナードさんの訳が読みやすく、すんなりと心に入ってきました。
詩は、役に立つのか。そんなことが「あとがき」に書かれています。
そしてそんな「ハウツー本」といちばん馴染まず、その対極にあるのは、詩というやつだ。それは詩が役立たないからではなく、詩は「そもそも『役立つ』ってどういうこと?」と、バカみたいに問いかけてみるからだ。「役立つ知恵って、だれのために役立つの?」とか「そもそもそのメソッドって、より効率よく飛んで火に入る夏の虫になるためじゃないの?」とか、疑問を呈して、人びとの思考停止を突こうとするのが詩。ハウツー本の前提より、もっともっと前へ回りこみ、「そもそもこんなことをやらないほうがいいのでは?」と、詩人は「やり方」のHowを含む「やる理由」のWhyをも見据える。この本には、そんな思考停止を気づかせる詩がいくつもあります。それが、「もし」「if」で表現される。「もし」「if」は、「こうだったらいいのに」というポジティヴな希望や願望の場合もあるし、「こうなってしまったらどうしよう」というネガティヴな不安や怖れの場合もある。また、想像の世界で遊んでみたり、「もし」「if」に問題提起や皮肉を隠す場合もある。「もし」「if」は様々な可能性を広げてくれる。
思考停止は生活の随所にひそみ、みんなが気づいていないその具現を見つけて指摘するのも詩人の仕事だ。
(230ページ)
でも、私は、「もし」「if」はむしろ思考停止じゃないのかと思ってきた。過ぎ去ってしまった過去に「もし」と言ってみても過去は戻ってこない。歴史に「もし」は禁句だ(ビナードさんの高校時代の歴史の先生と同じ考えかも知れない)。あり得ない未来に「もし」と言っても現実には変わらず虚しいだけだ。「もし」なんていってみても無力だ。
私が使ってきた「もし」はネガティヴな意味だけだったのかもしれないとこの本を読んで思った。文学の世界には多様な「もし」「if」が溢れている。ラドヤード・キップリングの「もし」はとてもいい作品だと思った。
もし一生ずっと幸せに暮らしたかったら、畑を耕して種を植えるがいい。この「耕して種を植える」のはそのものも意味だけではなく、生活、仕事、人生のあらゆることにおいて通じることだとビナードさんは考察している。いい言葉だなと思う。G.K.チェスタートンの「もし、ある人を叩きつぶそうと思ったら…」の詩は異なる宗教や文化を理解することの意味をストレートに伝えてくる。ジェイムズ・スカイラーの「あいさつ」はセンチメンタルで美しさを感じる。「もし」「if」は様々な感情を、一旦空中に浮かせて見つめ直し、考えてまたキャッチすることを可能にしてくれる。客観視して、自分の手元に戻ってきた時には少し違うものだと認識できる。面白いなと思う。
(94ページ)
日本の歌の詩も出てくるが、吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」が出てきて笑ってしまった。そうか、あれも「もし」か。
「もし」「if」でこんなに語れるなんて。ビナードさんが言葉を、日本語を、身の回りを注意深く見ているからこそ引き出せる話がとても面白かった。ビナードさんの著作は多数。もっと読んでみたいなと思った。
by halca-kaukana057
| 2019-12-03 22:29
| 本・読書