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 以前読んだ「日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」。大好きな本です。この本が映画にもなりました。単行本が出たのが2002年、文庫化されたのが2008年。出版から15年以上経っても読み続けられる、素敵な本です。映画化をきっかけに、続編が出ました。これは嬉しい。(ちなみに映画は観ていません)

・以前の記事:日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ


好日日記―季節のように生きる
森下典子 / PARCO出版 / 2018

 今作も、著者の森下さんが40年も続けてきたお茶のお稽古で感じたこと、日常のことや季節の移り変わりについて綴られている。フリーランスの文筆家・エッセイイストとして活躍しているが、毎日色々な難題や苦悩に直面する。なかなか書けない原稿、迫る締め切り。生活の場が仕事場でもあるので、仕事と暮らしの切り替えが難しい。部屋に閉じこもって原稿を書いていると心身の調子にも影響が出てくる。仕事も途切れることもあり、将来に不安も感じる。人間関係に悩むこともある。そんな森下さんにとって、お茶のお稽古は仕事からも日常からも離れて頭を切り替えられる場所、時間だ。
 お茶碗を押し頂き苔のような深い緑色に、ゆっくりと口を付ける。抹茶の香ばしさが鼻を打ち、さわやかな苦みと、深いうまみが口に広がる。
「スッ」と音をたてて飲み切り、茶碗から顔を上げると、緑色の風のようなものが、サーッと体を吹き抜けていく。
「ふぅーっ」
 気持ち良くて、おなかの底から長い息を吐く。目を上げると、向こうに見える庭の椿の葉が、雨に洗われたように輝いている。
(わぁ、きれい……)
 その時、私の中には、気がかりな仕事も、将来の不安も、今日帰ったらしなければならないことも、何もない。
 抱えている問題が解決したわけではない。現実は相変らず、そこにある。……だけど、その時、私は日常から離れた「別の時間」の中にいるのだ。

 目指しても目指しても、お点前は完璧にならない。けれど、「別の時間」にスルリと滑り込むことはいつの間にか上手くなっていた。
(7~8ページ)

 その時だけ、今目の前にあることに集中する。目の前にあることだけをじっくりと味わう。近年話題になっている、私も興味を持っている「マインドフルネス」の考え方だなと思う。仕事と日常生活がすぐ隣り合わせ、というよりもお互いが重なり合うことも少なくない森下さんの生活には、お茶のお稽古の時間がかけがえのないものになっているのだと思う。

 お茶の先生の家に週1でお稽古に行くが、お稽古場には季節を感じることの出来る演出・工夫がいくつも施されている。茶道は季節と密着に関わっている。花や掛け軸、玄関先にある色紙、お茶の道具も、お茶といただくお菓子にも季節のものが使われている。お稽古で季節を感じることもあれば、お稽古がきっかけで身の回りの季節に気づくこともある。お茶のお稽古を通じて、季節に敏感になることができたのだろう。この本は章が二十四節気に分かれていて、その季節のことが描かれる。森下さんの住む東京と、私の住む地域では季節に差があるし、同じ日本とはいえ自然・草花や樹木にも違いがある。でも、森下さんが感じる季節の姿や変化の感じ方に共感する。自然の姿、有様はその時だけのもの。次の年に同じ季節が巡ってきても、決して全く同じにはならない。その時しか存在しない自然を慈しむ。自然に逆らうことはせず、受け入れる。自然に学ぶ。大切なことだと思う。

 茶道にはたくさんの作法がある。釜でお湯を沸かすために炉の炭をおこすところから始まる。この「炭点前」は難しい。難しいからと尻込みしていると、
「できるなら稽古しなくてもよろしい。できないから、稽古するんです」
と先生が仰る。先生の口癖だそうだ。その通りだなと思った。出来ないから稽古に通っている。こんな箇所があった。
 手順を間違えなくとも、先生の指摘は尽きることがなかった。上手に見せようとてらわないこと、自然にさらりとすること。はしばしまでおろそかにしないこと……。
 何十年やっても課題は尽きず、稽古に終わりはない。このごろ思う。目指しても目指しても終わりのない道を歩くことは、なんて楽しいのだろう。
 いくつになっても正面から叱り、注意してくれる人がいるということは、なんて楽しいのだろう。
 お茶を習い始めた頃は、早く完璧なお点前ができるようになりたかった。先生が「よくできました」と言ってくれないのが嫌だった。
(173ページ)
 私も声楽を始めた。私も、「早く上手くなりたい、技術を身に付けたい。たくさんの歌を歌いたい」と思っている。練習をしていくのも、怒られるのが嫌でしているところがある。この箇所を読んで反省した。声楽、音楽も「終わりがない」。目指しても目指しても終わりがない。そんな道に進んでしまったことに気が遠くなる、途方に暮れることもある。でも、終わりがないから、どこまでも歩いていけるから面白い。最近、先生からそんな課題を与えられた。難しいと思うが、そこで何を学べるだろう。ワクワクする気持ちもある。そして、できないから稽古しているということも。もっと素直になろう。叱られてナンボだ。成長の糧になる。(でも、これは決して練習をサボってもいいという理由ではない。練習はすること。足りない部分をレッスンで学ぶ)
 森下さんは40年もお稽古に通っている。私も、そんなに長い間学び続けることが出来るだろうか。声楽もだし、稽古・レッスンに通っているわけではないが宇宙・天文について学ぶこと、星見もだ。まだ始めて間もないこぎん刺しや編み物も。長く続けていることがあるって素敵だ。

 勉強については、こんな箇所もある。
「あのね、あなたたちは、道具の褒め方をもっと練習しなきゃだめよ。それには、場数を踏むことね」
「場数?」
「そうよ。お茶会にどんどん行って、亭主と正客のいろいろなやりとりを見て勉強するのよ。そして、自分も正客になってみて、いっぱい恥をかくの。それが勉強よ」
 その「勉強」という言葉に、一人の美しい老婦人を思い出した。昔、従姉と一緒に、初めてお茶会に連れて行っていただいたとき、その人は先生と言葉を交わした後、
「さっ、もう一席、お勉強してくるわ。お勉強って、本当に楽しいわね」
と、言って立ち去った。
 あれから何十年もたっている。けれど、私はまだ本当の勉強にたどり着いていない気がする。
(198~199ページ)

 続編のこの本も、何度も何度も「同感!」と思いながら読んでいた。やはり読後は清々しい。今この時を大切にしたくなる。
 森下さんのお茶のお稽古にも変化があった。お茶の先生も高齢になり、体力的にお稽古が難しくなってきた。ずっとこのままは続かない。ずっとこのままではいられない。だからこそ、一回一回を大事にするようになった、と。寂しい変化だが、いつかは訪れること。そういう意味でも、今この時を大事にしたい。
by halca-kaukana057 | 2019-03-21 23:12 | 本・読書

宇宙と人間 七つのなぞ

 物理学者の湯川秀樹博士の本は、色々と出ています。その中からこの本を。


宇宙と人間 七つのなぞ
湯川秀樹 / 河出書房新社、河出文庫/2014年

 この本は元々、1974年、「ちくま少年図書館」の中の1冊として刊行された。少年向けの科学の本なので、文章は講義を受けているような語り口調で親しみやすい。しかし、内容はちょっと難しめのところもあるかも。じっくり読んで、理解したいと思う本です。

 この本で語られる「七つのなぞ」とは、「宇宙のなぞ」、「素粒子のなぞ」、「生命のなぞ」、「知覚のなぞ」、「ことばのなぞ」、「数と図形のなぞ」、「感情のなぞ」。宇宙や素粒子、数学は湯川博士の専門だが、知覚、ことばや感情については執筆に苦労したそうだ。

 先日読んだ「宇宙に命はあるのか」(小野雅裕)は、ひとつのテーマを根底にして、宇宙開発や宇宙探査の歴史と現在、未来、何を目指しているのかを総合的に語った本だった。この湯川博士の本も、科学を総合的に語った本。その科学は、どんなに高度なものであっても、元々は私たちの身の回りにあるものから発展していった、というのが面白い。遠くの宇宙も、目に見えない素粒子も、難しい数学も、身の回りにあるものを観察し、調べることで発展していった。高度な科学を研究しようと思ったら、まずは身の回りに興味を持つことが大事なのだなと感じた。

 ことばについては、湯川博士がお孫さんの成長を「観察」した結果が書かれている。この本のために「観察」しようとしたわけではないが、一緒に遊んでいるうちにどのようにことばを理解し覚えていくのか、お孫さんの例が書かれている。言語学もやはり身の回りから発展していくのか。人間が学問を発展させていった過程もわかるようで面白い。

 科学は現実にあるものを観察、証明していくものだと思っていたが、「ノン・フィクション」の科学もある。数学の素数や複素数は「ノン・フィクション」だが、量子力学には必要なこと。湯川博士の時代ではまだ予測の段階のものもある。予測だけれども、それがないと現実の科学法則が成り立たない。確かに、科学には「ノン・フィクション」が存在する。これも面白いと思った。現代で言うなら、ダークマターもそのひとつ。重力波やヒッグス粒子も「ノン・フィクション」だったが、現実にあると観測された。湯川博士がもしまだ生きていたなら、興奮していただろう。

 知覚、感情の章で、博士はこう述べている。
私はいつも言うのですけれども、学校で習うこと、あるいは教科書に書いてあること、参考書に書いてあることはだいじに違いないけれども、それを覚え、また理解したら、それでいいと思うのは、たいへんな錯覚です。学校や書物で習うことを覚え、理解する、その根底には膨大な別の情報の獲得と記憶があるということを無視してはならない。目なら目を通じて、あるいは耳を通してはいってくるものもあるし、そのほかの感覚器官を通ってはいってくるものもある。そういう仕方で得たたくさんの情報を知らぬ間に自分で整理したり、覚えたりしているということが、意識的に勉強することと平行している。それは学校では直接には習わないことですが、それは学校で習うことと同じくらい重要だと思うのです。(211ページ)
 普段何気なく生活していることこそが、学ぶことに繋がっている。それをおろそかにしないでほしい。意識してほしい。そんな博士のメッセージは、とても重要だと思う。

 身の回りは、たくさんの謎に繋がっている。そう思うと、この世界は面白いなと思います。

 ちなみに、この本の冒頭で、神話の宇宙観のひとつとして、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」の宇宙創世の箇所が引用されています。大気の娘・イルマタルが世界を生み出す箇所。シベリウスは、この箇所をソプラノ独唱とオーケストラのために「ルオンノタール」として作曲したあの箇所です。世界各地に創世神話はありますが、その中から「カレワラ」が取り上げられたのが嬉しかったです。

【過去記事:湯川博士の本】
旅人 ある物理学者の回想
目に見えないもの
by halca-kaukana057 | 2019-03-18 23:14 | 本・読書

宇宙に命はあるのか

 本屋で平積みになっていて気になっていたところに、友人が面白かったと言っていた本。なぜ表紙が「宇宙兄弟」のムッタ?(帯によると作者の小山宙哉先生が絶賛しているとのこと)


宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八
小野 雅裕/SBクリエイティブ、SB新書/2018

 著者の小野さんはNASA、ジェット推進研究所(JPL)で火星探査ロボットの開発をしている技術者。この本の元となるWeb連載があり、原稿を書き上げた後、一般の読者との読書会を4回開き、そこでの意見を取り入れ改訂していった、とのこと。読み手の意見を製作の段階で取り入れているのは珍しいなと思います。

 一言で言うと、人類の宇宙開発、宇宙探査の歴史を描いた本です。SFだった宇宙飛行が、ロケットの開発により現実のものになっていく。そして宇宙へ飛んだ人類は、更に遠くへ…月、火星、もっと遠くの惑星へ、更にもっと遠くを目指していく。何のために?それは何故?何故そこまでして人類は宇宙へ向かっていっているのか。

 文章は易しく、読みやすいです。ドラマティックな、物語のような雰囲気で書かれているので、宇宙開発・宇宙探査のノンフィクションと思って読んだ私は最初驚きました。ちょっと脚色強くないか?とか。でも、この文体が、この本全体に通じるテーマである「あるもの」を印象付けるのに効果的だなとも感じました。この「あるもの」は読んで実感してください。ネタバレしません。

 何かを知りたくて読む、というよりは、この本の雰囲気、この本全体に通じる「あるもの」を感じながら、宇宙開発・宇宙探査の進んできた道とこれから進む道を味わう本かなと思いました。「コズミックフロント」のようなテレビ番組、「ライトスタッフ」「アポロ13」「遠い空の向こうに(October Sky)」「ドリーム(Hidden Figures)」、「はやぶさ」を描いた数々の作品などの映画を観ているような感じ。ノンフィクションではなく完全なSFだけど、「コンタクト」とかも。映画じゃないけど「プラネテス」も当てはまる(原作漫画もアニメも)。あと、表紙になっている「宇宙兄弟」もか。この本で初めて知ったこともあります。アポロ計画を支えたジョン・ハウボルトとマーガレット・ハミルトン。彼らがいなければ、アポロ計画は実現していなかったし、成功もしていなかった。ボイジャー計画のゲイリー・フランドロと彼の計画に賛同し引き継いだJPLの技術者たち。ボイジャー計画は最初から現在の計画ではなかったのか。あのアメリカでもこの大冒険に消極的だったのか。これには驚きました。

 私が何故宇宙や天文に興味を持っているのか…?その理由を問われているような本でもありました。

 この本には書かれませんでしたが、つい先日の「はやぶさ2」の小惑星リュウグウへのタッチダウン成功。ワクワクして仕方なかったし、成功の報せに喜び、届けられたタッチダウンの連続画像には興奮しました。リュウグウは、最初は丸い平坦な小惑星と考えられていた。ところが、実際に行ってみたらそろばん玉のような形で、ゴツゴツ岩だらけなことがわかった。リュウグウには、原始の太陽系の成分や、もしかしたら水、有機物があるかもしれない。地球のような惑星が初期の頃はどんな星だったのか、生命の起源はもしかしたら宇宙から来たのかもしれない。それを解く鍵を探しにはるばるリュウグウまで向かいました。「はやぶさ2」計画は予算などの関係で実現が危ぶまれたこともあります。宇宙・科学ライターの方々の呼びかけで、宇宙ファンが実現してほしいと関係機関へメールを送ることもしました。私も協力しました。そこまでして「はやぶさ2」を実現させたかった理由。初代「はやぶさ」が様々なトラブルに見舞われながらも地球へ小惑星イトカワのサンプルの入ったカプセルを地球に持ち帰ろうとしていた(この時点では、まだ本当にカプセルにサンプルが入っているかわからなかったし、地球に帰還できるかもわからなかった)。その成果を繋いでいってほしい。「はやぶさ」が見せてくれたイトカワの姿。他の小惑星はどうなのか。イトカワと似ているのか、全く違うのか。技術実証機である初代「はやぶさ」はトラブル続きだったが、ここで得られたものを生かして、本番の「はやぶさ2」を飛ばしてほしい。「はやぶさ2」でもっと広い宇宙を見たい。そんな思いからでした。

 「はやぶさ」シリーズだけでなく、他の探査機や宇宙機、様々な望遠鏡は遠い宇宙の姿を見せてくれます。惑星の様々な表情、星雲や銀河、生まれたばかりの星、一生を終えようとしている星。それらの姿にワクワクします。頭の上に広がっている宇宙は、肉眼では小さな星がいくつも輝いているけれども、実際にはどんな姿をしているのだろう。どんな星があるのだろうと星空を観る度に思います。
 また、宇宙から見た地球の姿も興味深いです。自分の姿は鏡に映せばわかるけど(それでも、見落としている部分もあるし、心の中までは全てはわかりません)、地球を見るためには宇宙に行かなくてはいけない。私は宇宙に行けないけれど、ISSに滞在している宇宙飛行士たちが伝えてくれる地球の姿はとても表情豊かで美しく、地上にいてはわからないことばかり。また、地上から400kmしか離れていないけれども、その距離でも宇宙の生活は地上の生活とは違う、宇宙に行くと物体や人体に何が起こるのか、わからないことがたくさんあります。

 私が宇宙・天文に惹かれるのは、見たことのない世界を見たいから。地上の固定概念から離れた、もっと広い世界を見たいから。それがとても楽しいから。好奇心が疼くから。単純だった。でも、その単純な感情がきっかけになって、複雑なロケットや探査機、望遠鏡など宇宙を探る装置を作り出し、どんどん遠くを見ているのだからすごいなと思う。この本に書かれていることも、「あるもの」がきっかけになってどんどん遠くの宇宙を見ようとしてきた。そのうち、ある疑問が出てきた。生命のある星は地球だけなのか。宇宙のどこかに生命はいないのか。地球の生命はどこから来たのか。単純な問題ほど深くて難しくなかなか答えが出ない。

 普段私が読んでいる宇宙に関するノンフィクション、専門書とは違う切り口で面白かったです。
by halca-kaukana057 | 2019-03-13 22:53 | 本・読書

ピアノ・レッスン

 以前読んだ「すべての見えない光」についてネットで調べていた時、この本を見つけました。


ピアノ・レッスン
アリス・マンロー:著、小竹由美子:訳/新潮社、新潮クレスト・ブックス、2018年

 カナダの田舎町。訪問販売員(行商)の仕事をしている父。父が仕事に行くのについて行くことになり、一緒に車に乗る。父は様々な家を訪問し、ものを売りながら色々な人と話をしていた…(ウォーカーブラザーズ・カウボーイ)

 アリス・マンローは2013年ノーベル文学賞を受賞したカナダ人作家。全く知りませんでした。

 15の短編が収められています。どれも、カナダの田舎町を舞台にしています。そして、どの作品も物悲しい。読んだ後、しんみりとしてしまう。描かれているのは、どこにでもいそうな市井の人々のちょっとした日常。しかし、彼らにとっては忘れられない日。そんな時間を丁寧に描いています。

 好きなのは…と言っても、先述の通り読後しんみりしたり、もやもやしたり、心が痛んだりと幸せな気持ちになれる作品ではない。でも、惹かれる作品がいくつもある。「輝く家々」は、日本でもこんな問題が数多くあるのではないかと思う。「死んだ時」と「蝶の日」は本当に重い。救いがないと思ってしまう。「乗せてくれてありがとう」と「赤いワンピース ― 1946年」は苦い、でも少し甘い青春のヒトコマ。この2作は読後、少し気持ちが楽になる。物事は何も変わってはいないのだけれども。どれも、正面から見ると物悲しいが、そこにこそ人間の生き様や心があると感じさせてくれる。何かがあっても、人生は続く。描かれない続いていく日々がどうなるのだろうか、と思ってします。

 「ユトレヒト講和条約」が一番惹かれました。実家に帰った「わたし(ヘレン)」。実家には姉のマディーが住んでいる。マディーは母の面倒を死ぬまでみていた。わたしとマディーはぎこちない。そんなわたしは、おばさんの家を訪問した。アニーおばさんは、母のあるものを見せて、母のことを語りだした…。
 これも、日本でも同じような立場にある人がたくさんいるのではないかと思う。ヘレンとマディーの最後のシーンがとても印象的で、胸に突き刺さる。マディーの気持ちがよくわかる。どうにかしたい、でも変えられない。「どうしてできないのかな?」この最後の言葉の重みがのしかかってくる。「わたし(ヘレン)」のようになれば楽、だとは限らない。後から事実を知った方が辛いこともある。この「立場」から楽になるには、この「立場」にあっても自分を失わずにいるにはどうしたらいいのだろう…読んだ後、考え込んでしまう。

 表題作「ピアノ・レッスン」。原題は「Dance of the Happy Shades」.この意味は読んでからのお楽しみにしておきたい。年老いたピアノ教師の発表会のパーティーで起きたある出来事。一方から見れば、この本の紹介文にあるとおり「小さな奇跡」。でも違う面から見ると、これも物悲しくなってしまう。あの演奏をした子は幸せなのか。幸せなんて数で表せるものでもないし、絶対的なものでもない。あの子は幸せだったろう。でも、「わたし」を通して見たあの子と先生(ミス・マルサレス)の姿は…。人間のものの考え方というものに、不思議なものを感じられずにはいられなかった。

 面白いけれども、読むと辛い…。でも素敵な本です。アリス・マンローさんの他の本も読んでみたいです。
by halca-kaukana057 | 2019-03-01 20:42 | 本・読書

きげんのいいリス

 先日書いた「ハリネズミの願い」の続編です。
ハリネズミの願い


きげんのいいリス
トーン・テレヘン:作、長山さき:訳、祖敷大輔:絵 / 新潮社 /2018

 森に暮らす、リスやアリ、ゾウやハリネズミ他の動物たち。毎日、色々なことをして過ごしている。手紙を書いたり、旅に出たり、不思議な出来事に出会ったり、やってみたかったことをやってみたり…。

 本のタイトルはリスですが、リスが主役というわけではありません。登場回数は多いです。森の動物たちの小さな物語が51章あります。前作「ハリネズミの願い」でも登場した動物たちの、違う面が見られます。ハリネズミももう家に引きこもって堂々巡りをしてはいません。4章でこの本で初めてハリネズミが出てくるのですが、不思議な登場の仕方をします。あれは一体何が起こっているんだ。森では、そんな不思議なことも色々と起こります。

 「ハリネズミの願い」よりも明るい雰囲気で、様々な動物たちのユーモラスな日常が描かれていて、こどもが読むのにもいいかと思います。でも、「ハリネズミの願い」同様、いきなり心や思考の深みに持っていかれます。例えばアリ。アリはリスと仲が良く、時々旅に出ると言い出します。そして、何かを考え込むことが多い。10章のアリは、明治時代あたりで文学や哲学を学ぶ学生にいそうな雰囲気。20章でリスと一緒にいたアリが言い出したことは、わかる気がする。が、リスの前で言ってはだめだろう(相手が単純な性格のリスだったからよかったものの)。24章のアリが言い出したことも。リスじゃなかったら相手は怒るか悲しむか。深いけど、ユーモアで落としていて楽しく読めます。

 他の動物たちもユーモラスで風変わり。38章のカメとカミキリムシも好きだ。カミキリムシは、「ハリネズミの願い」でも、大人で冷静に物事を見ている。そのカミキリムシがカメの疑問に対して答えた内容が好きだ。カミキリムシと別れた後のカメの描写もいい。カミキリムシは冷静だと書いたが、3章では意外な一面も見せる。その人(動物)の「個性」というのはひとつだけではない。様々な面があっての「個性」なんだと実感する。31章のゾウの手紙も好きだ。不思議なゾウの手紙を受け取ったハリネズミ。こんな手紙があればいいなと思った。手紙の話なら36章もいい。素敵な友情だ。

 最後の51章の終わり方もいい。やっぱりあたたかい紅茶が似合う本だ。

 トーン・テレヘンの動物の物語はまだまだ沢山あるらしい。さらに翻訳されて、出版されればいいなと思っています。

by halca-kaukana057 | 2019-02-26 22:05 | 本・読書

ハリネズミの願い

 書店で、本屋大賞翻訳部門と紹介されていて、気になって読みました。翻訳部門もあるんだ。


ハリネスミの願い
トーン・テレヘン:作、長山さき:訳、祖敷大輔:絵 / 新潮社 /2016

 森に住むハリネズミは、自分のハリのことが大嫌い。他の動物たちとうまく付き合えずにいた。ハリネズミの家を訪れる動物は誰もいない。誰かを家に招待したら…と考えたハリネズミは、招待状の手紙を書いた。が、誰にも出すことが出来ない。ハリネズミは、自分の家を訪れるかもしれない動物たちについて考え始めた…。

 トーン・テレヘンさんはオランダ人で、医師であり詩人。娘さんのために、動物たちの物語を書き始めた。子どもも親しんで読める動物たちのお話ですが、深いです。

 ハリネズミは自分はハリを持っているから皆が怖がって近寄ってこないと思っている。ハリをコンプレックスと思っている。動物たちと仲良くできたら…と思っているが、招待状を出すという行動に移せない。招待状を書いても、「だれも来なくてもだいじょうぶです」なんて書いてしまう。そして、あの動物はこんな風に断ってくるだろう、あの動物がやってきたらこんなことを言うだろう…というネガティヴな憶測がどんどん膨らんでいく。ハリネズミの家を訪れる動物たちについて語られているが、彼らは実際にはハリネズミの家にやって来ていない。あくまで憶測、ハリネズミ自身の心配。その過度の心配をするハリネズミを、考え過ぎなんじゃないかと思いながら読んでいた。認知行動療法について学んだことがあるが、これは「根拠のない推論」じゃないか、これは「一般化のし過ぎ」なんじゃないかという視点でも読んでいた。ハリネズミは考え方のクセが相当強いな…と。

 でも、ハリネズミの気持ちはよくわかる。私も同じように思ったことが何度もあるからだ。誰かと仲良くなりたい。友達がほしい。友達ができて、その友達と遊びに行ったり、ゆっくり話をしたい。でも、遊びに誘ったら断られないだろうか。忙しくないだろうか。迷惑をかけていないだろうか。邪魔なことをしていないだろうか。やっぱり遊びに誘うのはやめよう…。こんなことがよくあった。他の人は、気軽に誘って、誘いを受けて遊びに行っている。自分はできない、情けない、と何度も思った。

 ハリネズミは、誰かに家に遊びに来てほしいと思うが、そのやってきた動物たちがハリネズミの望まない言動をするんじゃないかと気に病んでいる。そんな誰かが来るのを怖がり、家に引きこもって、ベッドの下に隠れるか、毛布をかぶってしまう。相手とどう付き合ったらいいかわからない。でも、無理もない。ハリネズミ自身、他の動物との接触を避けている。ハリネズミの自業自得だろうか。ハリというどうしようもできないコンプレックスに、どう向き合ったらいいかわからないハリネズミ。そんな「ハリ」のようなものを、誰しも抱えているのではないだろうか。

 ハリネズミの「ハリ」は、言葉とも考えられる。言葉は相手を思いやることもできるが、簡単に傷つけることもできる。ハリネズミの「ハリ」がいつでも相手を傷つけるわけではない。「ハリ」を相手に刺さないように扱うことも出来るはずだ。言葉も同じように。ハリネズミは、様々な動物たちの言動に困ってしまっている想像をしている。相手の言動で傷ついたなら、それを相手を傷つけないように言葉で話すことも出来るはずだ。でも、気弱なハリネズミはそれができない。この気弱な部分もよくわかる。

 14章、15章で、ハリネズミは「孤独」について考える。もし優しい誰かが来ても、「孤独」はそこに存在するだろう…。自分自身がいるから、「孤独」ではないんじゃないの…?この箇所が深くて、お気に入りです。21章のハリたちの話や、23章の自分の家の話も好きだ。ひとりでいれば傷つかない。ひとりでいれば一番いい。はず。でも、ハリネズミは誰かが家にやってくることを考える。ひとりでいること、誰かといること、「孤独」とは…。普段考えずにいることだけど、頭の片隅にはいつもある、何かのきっかけでそのことについて考えることになること。それを思い出させてくれる。考え過ぎると危険だけど、避けては通れないことだ。

 そんなハリネズミの堂々巡りを断ち切る出来事が起きる。甘いはちみつとあたたかい紅茶が似合う。最後の章が印象的だ。やっぱりハリネズミのネガティヴな憶測はまだ続いている。でもひとつだけ変わったことが起きる。心があたたまります。

 続編の物語も出ていて、読んでいます。
by halca-kaukana057 | 2019-02-24 22:25 | 本・読書

すべての見えない光

 たまたま目に留まった本。面白そうなので読んでみた。


すべての見えない光
アンソニー・ドーア:著、藤井光:訳/新潮社、新潮クレスト・ブックス/2016

 1930年代。少女のマリー=ロール・ルブランはパリで博物館の錠前主任の父と暮らしている。マリー=ロールは病気で視力を失った。毎日父と一緒に博物館まで行くが、後に杖と聴こえる音、道を記憶し、練習を重ね自分で行けるようになっていった。誕生日には父から手作りのパズルの箱に入ったお菓子と、点字の本をプレゼントされた。マリー=ロールはジュール・ベルヌの本に夢中になる。
 ドイツの孤児院で妹・ユッタと共に暮らす少年、ヴェルナー・ペニヒ。父は炭鉱の事故で死んだ。ヴェルナーはゴミの山から壊れたラジオを見つけ、ひとつひとつ部品を外し観察する。そしてラジオを直し、妹と一緒に聴くようになる。ラジオからは色々なものが聴こえるが、男性がフランス語で科学について話す放送を聴くようになる。ヴェルナーは「力学原理」の本を読むようになり、数学や科学を学んでいく。さらに、孤児院や近所の人の壊れた機械を直すこともできるようになる。
 一方、ドイツはナチスの時代に入っていく。ある日、孤児院にやってきた兵長の前でヴェルナーはラジオを直し、国家政治教育学校に進学しないかと提案される。ヴェルナーは試験に合格し、学校でも特別な授業を受けることになる。
 ドイツがパリを攻撃し、マリー=ロールと父は大叔父がいるサン・マロの町へ避難する。


 アメリカでベストセラーになった作品というのは、読んだ後で知りました。読んで、ベストセラーになったのことに納得しました。とにかく面白い。マリー=ロールとヴェルナーが成長し、戦争に巻き込まれていく。2人は一体どうなるのか。ドイツとフランスに離れて暮らす2人に、接点があるのか。どうなるのか知りたくて、どんどん読んでしまいます。

 ヴェルナーは数学と科学が好きで、どんどん学んでしまう。そのきっかけになったことのひとつは、修理したラジオで聴いたフランス語の科学の話。そのフランス語の放送から引用します。
 さて子どもたちよ、もちろん脳はまったくの暗闇のなかに閉じこめられているよね。脳は頭蓋骨の内部で透明な液体のなかに浮いていて、光が当たることはない。それでも、脳が作り上げる世界は光に満ちている。色や動きにあふれている。それでは、ひとつたりとも光のきらめきを見ることなく生きている脳が、どうやって光に満ちた世界を私たちに見せてくれるのかな?(49~50ページ)

 目を開けて、と男は最後に言う。その目が永遠に閉じてしまう前に、できるかぎりのものを見ておくんだ。(50~51ページ)

 目に見える光のことを、我々はなんと呼んでいるかな?色と呼んでいるね。だが、電磁のスペクトルはある方向にはまったく走らず、反対方向には無限に走るから、数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ。(55ページ)
 これらの言葉が、ヴェルナーを科学の世界へいざなう。同時に、マリー=ロールのことも暗示する。視力を失い、光を失ったマリー=ロール。しかし、彼女は本を読んだり、父と会話して物事を想像する。目に見えなくても、マリー=ロールの世界は光に満ちている。さらに、電波、ラジオの存在も。電波も電磁波のひとつ。「光」である。ヴェルナーはラジオと出会い、運命が動き出す。マリー=ロールにとって音は重要な情報だ。のちにマリー=ロールにとっても、電波やラジオは重要な存在となっていく。「光」という言葉にこんなに沢山の意味を込めている。それを美しい言葉で語っている。

 この物語にはもうひとつ重要なものが存在する。「炎の海」という青いダイヤモンド。これが、マリー=ロールの運命を変えていく。この宝石にはミステリアスな言い伝えがある。ダイヤモンドをめぐる話はミステリーのようであり、少年少女の冒険物語のようでもある。

 戦争に巻き込まれる2人。フランス側のマリー=ロールや家族、サン・マロの町の人々は危険が迫る中で静かに行動を起こす。大叔父のエティエンヌがとてもいい人だ。ドイツ側のヴェルナーは、ナチスに支配されてはいるが、心の中までは支配されていない。学校の友人のフレデリックとの友情がそれを物語る。繊細で忍耐強いフレデリックの姿は痛々しいが、希望も感じる。

 ヴェルナーはその科学の才能を、戦争のために使うことになる。特別授業をする教授の言葉にこうある。
科学者の仕事とはふたつの要因によって決定される。本人が持つ興味と、その時代が持つ興味だ。(157ページ)
 この言葉を読んで、同じくドイツ出身の科学者、フォン・ブラウンを思い出した。ロケットを作りたかったフォン・ブラウンと、フォン・ブラウンの技術を兵器として転用したナチスドイツ。ヴェルナーもラジオから始まった興味が、「違法な」電波を使ってやりとりしている者を見つけようとすることに繋がっていく。

 物語を読み進め、マリー=ロールとヴェルナーの接点がどんどん近づいていく。続きを読みたいのと、マリー=ロールとヴェルナーの時間がそこで止まってほしいと思う。でも時間は進んでしまう。あらすじをこれ以上は語りたくない。ネタバレさせたくない。とにかく読んで味わってほしいと思う。

 本当に面白かった。読後の感覚にいつまでも浸っていたい作品です。
by halca-kaukana057 | 2019-02-18 22:25 | 本・読書
 映画を観た後、すぐにこの原作本を買ったのですが時間がかかってしまった。あと、合わせてDVDで映画をもう一度観たいと思っていたらもう1年以上…。
・映画感想。あらすじを読みたい方もこちらへ:映画「ドリーム(Hidden Figures)」

ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち
マーゴット・リー・シェタリー:著、山北めぐみ:訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン、ハーパーBOOKS/2017

 映画感想の最後に、「原作小説」と書きましたが、違います。小説ではありません。ノンフィクションです。

 読んで、まず思ったのが、よくこの本を原作にあの映画の物語を書けたなぁということ。映画で取り上げられたのは、この本の一部でしかありません。映画では1961年から、ジョン・グレンが宇宙に行った「フレンドシップ7」の飛行(1962年)までを描いています。この本では、もっと長い、話は第二次世界大戦前にまで遡ります。ラングレー記念航空工学研究所では、飛行機のデータを計算する計算手を多数必要としていた。1935年、初めての女性計算手グループが発足する。その後戦争が始まり1943年には、計算手の若い女性の確保が難しくなっていった。ここで、黒人労働組合の会長が戦争関連の仕事を黒人にも解放するように大統領に要求。それが受け入れられ、黒人女性たちも計算手として採用される。ただ、この頃はまだ黒人差別が当たり前の時代。しかもバージニア州は厳しかった。有色人種用のトイレを用意しなければならなかった。

 映画で登場した3人の女性、ドロシー・ヴォーン、キャサリン・ゴーブル(ジョンソン)、メアリー・ジャクソンについてこの後語られていきます。ドロシーもキャサリンも最初は学校の教師だった。そこに、ラングレーでの計算手の仕事が舞い込んでくる。「ウェスト・コンピューターズ(西計算グループ)」のことだ。この頃はまだNASAではなくNACAで、航空の仕事がメインだった。メアリーも「ウェスト・コンピューターズ」に配属され、次第にロケットやミサイルのデータの計算に移っていく。
 映画では3人の仕事での奮闘と、人間ドラマが描かれる。この本では映画に出てくるエピソードはほとんど出てこない。どんな仕事をしていたかは出てくる。最初にも書いたが、よくこの本を原作にあの物語を書けたなぁと思う。
 この本では、3人の仕事と同時に、アメリカ社会での黒人の立場、差別と解放の歴史についても語られている。黒人として、女性として、3人が仕事の幅を広げていくのに重ねあわされるが、それぞれがひとりの人間として見られてもいる。

 映画はジョン・グレンの飛行で終わったが、この本ではその後についても描かれている。のちにラングレーにやってくるクリスティーン・ダーデンというドロシーたちの後輩についても書かれている。メアリーはNASAの仕事以外のことでも活躍している。キャサリンはアポロ計画、スペースシャトル計画にも携わった。ドロシーは管理職を務めたが、業績を誇示したり当時の肩書きを利用するような目立つようなことはしなかった。

 この原作を読んで、DVDで映画をもう一度観てみました。本とかなり違う。全くの別物ではない…映画は史実に基づいてはいるけれどもフィクションは入っている。もっと詳しく知りたい人にこの本を薦めます。

by halca-kaukana057 | 2019-02-13 22:05 | 本・読書

音楽のたのしみ 4 オペラ

 全4巻のシリーズ「音楽のたのしみ」。3巻まで読んで、4巻は読まずにいた。10年間も。10年越しで読みます。
【これまでのシリーズ】
音楽のたのしみ 1 音楽とはなんだろう
音楽のたのしみ 2 音楽のあゆみ ― ベートーヴェンまで
音楽のたのしみ3 音楽のあゆみ ― ベートーヴェン以降


音楽のたのしみ 4 オペラ
ロラン=マニュエル/吉田秀和:訳/白水社・白水Uブックス/2008

 作曲家・音楽評論家のロラン・マニュエル氏と、若手ピアニストのナディア・タグリーヌ嬢が音楽について語り合う同名のラジオ番組が元になったこのシリーズ。最終巻の第4巻はオペラがテーマ。オペラの始まりから発展、多様化を経て現代に至るまで、そしてこれからを語ります。

 オペラは私にとってまだまだ未開拓の世界。数年前に声楽を習い始め、古いオペラアリアなどを集めた「イタリア歌曲集」を歌ってきたが、課題となった歌を声楽的に美しく歌うことで精一杯な状態で、そのアリアがどんなオペラのどんな場面で歌われるアリアなのか、調べきれていないものも多い。「イタリア歌曲集」に収められているアリアは、アリアは残っていてもオペラそのものは失われてしまったか、残っていても滅多に演奏されないものも少なくないからだ。でも、歌詞の意味だけは必ず頭に入れて、感情も込めるようにしている。

 声楽レッスンで歌っている範囲以外のオペラについて少しずつ聴いて勉強していたが、今は止まってしまっている。なので、この本を読んでも、さっぱりわからないことが多い。作曲家の名前や、具体的なオペラのタイトルは知っていても、どんな曲だっけ?どんな物語だっけ?と思ってしまう。勉強不足を実感。

 それでも、ロラン=マニュエル氏とナディア嬢のやりとりは面白い。ナディア嬢はこれまで通り、わからないことがあれば遠慮なくロラン=マニュエル氏に質問する。ナディア嬢なりの考えを話してみる。ロラン=マニュエル氏から教えられることもあるし、その考えが合っていてロラン=マニュエル氏を驚かせることもある。知らないこと、わからないことは恥ずかしいことではない。これから勉強していけばいいんだ。ただ鵜呑みにするのではなく、自分なりに考えること、疑問を持つことも大事。10年経ってしまったがまた原点に戻ることができたようで嬉しい。

 フランスのラジオ番組が元になっていて、2人ともフランス人。なので、イタリアから生まれたオペラが、フランスでバレエが加えられ、歌以外の台詞を含むオペラ・コミークとなっていく。イタリアとフランスのオペラ論争、オペラに対する考え方の違いは読んでいて面白かった。この本の半分ぐらいは、古楽のオペラを扱っている。モンテヴェルディやアレッサンドロ・スカルラッティ、リュリ、ラモー、パーセルなど。この辺りは作曲家もタイトルも名前は知っているけど聴いたことがないオペラが多い。ぜひ聴いてみようと思う。

 モーツァルトが登場し、ドイツ語のオペラが誕生するが、モーツァルトのオペライタリア・オペラの流れがあるというのは面白かった。また、モーツァルトのオペラ論も。
「オペラでは、詩は音楽の従順な僕であるべきだ」
「最も恐ろしい状況でも、音楽は耳を満足させなければなりません。ひと言でいえば、音楽はいつも音楽でいなければなりません」
(第14話、164、165ページ)
 私が以前(正直に言うと今も)オペラをとっつきがたいものと感じるのは、音楽だけじゃない、という理由がある。物語があり、台詞があり、アリアや重唱、合唱があり、演出・演技があり、舞台装置があり…芝居である。同じオペラでも演出が違えば、見方が全然変わってしまう。そこが難しいと感じる。オペラをテレビや生で観ると、歌や歌声に圧倒されると同時に、物語を追う。台詞や歌詞の内容を追う。オペラを観た後の感想は、歌や歌声、音楽よりも、物語について思うことが多いかもしれない。なので、音声だけ、CDでオペラを聴くとよくわからないことが多い。対訳をずっと自分で読み続けていないと歌詞の意味がわからないからだ。オペラにとって大事なのは、音楽なのか、物語なのか。第29話「あたらしいオペラへの展望」、第30話「音楽的表現の価値に関する省察」で詳しく語られる。第29話のゲスト、アンリ・バロ氏はこう語っている。
「ところが、わたしの望んでいる密度の高い活気は、たとえ言葉がわからなくても理解できるくらい、簡単な動きを前提としているんです」(349ページ)
さらに、第30話では2人はこう語っている。
N(ナディア):でも、いいですか、わたしが自分の好きなオペラをきく場合、音楽は言葉や状況に結びついています。音楽は劇の感動にその反響をつけ加え、それを敷衍拡大します。
R-M(ロラン=マニュエル):どうしてあなたは、いってみれば、旋律にのせられた色褪せた言葉のおかげで、無意識のうちに、もともと音楽のものじゃなくて言葉から借用したにすぎない表現を音楽に付属するものと考えさせてしまうんだってことに、気がつかないのかな。
N:ああ、うまいことを考えましたわ。イタリア・オペラのグランド・アリアを原型どおりにきかせていただきましょう。わたしはイタリア人じゃなくて、言葉の意味はわからない。それでも、いまきいたアリアが喚起する状況とか、それが表現する人物の性格や感情を、思いちがいしないのじゃないかと思うのですけど。
(中略)
R-M:お望みなら、音楽の表現の可能性は、テンポの性格を示すのに使われるイタリア語の形容詞の術語集の中に、正確に包括されていると申し上げましょう。この種の術語を翻訳すれば、とりちがえることなく、ある音楽が快速だとか、活発だとか、軽妙なおしゃべりだとか、よく流れるとか、楽々としているとか、荘厳だとか、厳粛だとか、いえます。
N:そうすると、音楽が感情自体を表出しているような幻覚を与えるのは、何かの感情にぴったりするリズム、歩きぶり、性格などを組合わせているからだ、というわけですか?
(356~358ページ)
 よく考えると私も同じことをしている。声楽のいつものレッスンでは先生と1対1だが、発表会となると様々な人が聴きに来る。私が歌う歌を聴いたことがない人もいる。そんな人にも、どんな内容の歌なのか伝わるように歌いたい。発表会は勿論だが、聴く人が先生しかいないいつものレッスンでも、歌う時に欠かせないものがある。強弱や速さ、軽さや重さ、明るさや暗さ、クレッシェンド、デクレシェンド、だんだん速くなるのか遅くなるのか、なめらかなのか、一音ずつ切るのか、音を保つのかなどを示す演奏記号だ。発想記号も。発音や発声による、声楽的な美しさに合わせて、これらのことを元に歌っていく。歌ではないが、ピアノを弾いていた時も同じだ。歌詞がつこうとつかなくとも、やっぱり第一に「音楽」なのだ。

 この本を読むと、「音楽」の広さと深さを実感する。途方もない広大な、どこまでも深く、どこまでも空高い世界なのだと。自分には大き過ぎてつかめないと感じる。でも、何十年かかっても、少しずつ聴いて、「音楽のたのしみ」を味わえる瞬間を大事にしたいと思う。途中ブランクが空いて時間はかかったが、やっぱり読みきってよかった。オペラも、この本に登場したものを聴いていこう。
by halca-kaukana057 | 2019-02-02 23:05 | 本・読書
 以前から読もう読もうと思っていた本。2015年のニールセン生誕150年に合わせて出版された本でした。


カール・ニールセン自伝 フューン島の少年時代 デンマークの国民的作曲家
カール・ニールセン:著、長島要一:訳/彩流社/2015

 デンマークの作曲家、カール・ニールセン。彼が1927年に刊行したこの自伝。生まれてから、1884年にコペンハーゲンの音楽アカデミーに進学しコペンハーゲンに向かうまでのことが書かれている。1994年には映画化もされたそうだ。ニールセンはデンマークのユラン半島のすぐそばにあるソーテルンに生まれた。家は貧しい農家。12人兄弟の7番目。姉の何人かは病気で亡くなっていた。また、きょうだいは大人になるとアメリカやオーストラリアに移住した。

 ニールセンの子ども時代は、とてものびのびとしていた。デンマークの豊かな自然の農村で、別の農家や瓦工場で手伝いをしていた。この本にはきょうだいたちのことがいきいきと書かれている。家は貧しく、モノはなかったが、おおらかな家族の姿には親しみを感じられる。
 ニールセンは14歳になる前に堅信式(キリスト者として成人したことを示し、キリスト教への入信を完成させる儀式)を挙げ、学校を終えた。学校を終えると、奉公に出なくてはならない。ニールセンは雑貨屋で働くようになった。
 一体どこで音楽を学んだのか。ニールセンの父はヴァイオリンとコルネットを演奏し、宴会でヴァイオリンを演奏して家計の足しにしていた。ニールセンもヴァイオリンを弾くようになり、父の代わりに演奏することもあった。母は歌が得意で、澄んだ声でよく歌っていた。ニールセンが小さいころ、薪が1本ずつ違う音を出すことに気づき、槌で叩いて「演奏」することもあった。ニールセンは音楽を特別なものと学んだわけではなかった。両親との生活の中に音楽があって、それをよく聴いて、模倣するところから始まっている。そして自分なりにアレンジしたり、宴会の場で演奏する曲を作曲したこともあった。オーデンセの町で初めてピアノを見て弾いた時のことは印象的だ。後に、ニールセンは他の学校の先生からヴァイオリンのレッスンを受けることもあり、どんどん上達していく。

 ニールセンが音楽を生業にしたのは14歳の頃。働いていた雑貨屋が倒産し、家に戻っていた頃、オーデンセの軍楽隊に欠員が出たので、応募することにした。軍楽隊には管楽器しかない。ニールセンは父からコルネットを教えてもらい、猛練習し、試験に合格した。軍楽隊では信号ラッパを吹くことと、アルトバスーンを担当した。ニールセンにとって、音楽は仕事であった。プロとして十分に演奏できるようになっていた。演奏したことのないアルトバスーンをすぐに演奏できるようになったのは、耳から覚えた感覚と実践力があったからだろう。
 軍楽隊での仕事が安定すると、ニールセンはピアノを買い、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」などを練習するようになった。同時期に、酒場でオウツェンという年老いたピアニストと出会う。ニールセンはオウツェンからピアノや音楽を学び、また、オウツェンのピアノとニールセンのヴァイオリンで、ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンのヴァイオリンソナタを演奏していた。

 やがて、ニールセンはオーデンセ大聖堂の音楽監督のラールセンからヴァイオリンの個人レッスンを受けるようになる。それが当時フューン島で教師をしていたベアンツェンの目に留まり、コペンハーゲンの音楽アカデミー進学へ繋がっていく。

 この自伝には、音楽をどうやって学び、仕事としていったかについても書いてあるが、多くは家族のこと、日常のことだ。兄弟とこんな遊びをした、兄弟がこんなことをした、ある日の食卓はこんなことがあった。ほのぼのとしている。一方で、農場は、動物の生と死にも直面する。さっきまで生きていた家畜を殺して、その日の夕飯になることもある。こんな毎日の中でニールセン少年は人間として成長していく。音楽家の面だけでない、人間としての、農家の息子としてのニールセンが描かれている。その姿は素朴で、おおらかだ。後に作曲する交響曲にも、そんなタイトルがつくことになるのは偶然だろうか。

 自伝の本編の後には、解説としてその後のニールセンについても書かれている。音楽アカデミーを卒業し、作曲家として歩み始めたニールセン。様々な作品を作曲する。

 ニールセンの音楽がどのように始まったのか。それ以前に、ニールセンがどんな人間だったのか。興味深い本だった。
by halca-kaukana057 | 2019-02-01 20:48 | 本・読書

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by 遼 (はるか)
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