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まだまだ、シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう ダウスゴー & BBCスコティッシュ響

 今回はシリーズではありませんが、シベリウス「クレルヴォ(クッレルヴォ)」op.7の演奏会のオンデマンドがあります。

◇オンデマンドはこちらから:BBC Radio3 : BBC Scottish Symphony Orchestra
 放送後30日間の公開です。6月16日頃まで。
BBC Scottish Symphony Orchestra : Closing Night - Composer Roots 7: Sibelius’s ‘Kullervo’ + Post-Season Party

トーマス・ダウスゴー:指揮、BBCスコティッシュ交響楽団
ヘレナ・ユントゥネン (Helena Juntunen ソプラノ)
ベンジャミン・アップル (Benjamin Appl バリトン)
ルンド大学男性合唱団 (Lunds Studentsångare / Lund Male Choir)

 プログラムは「クレルヴォ」と「フィンランディア(フィンランド讃歌の部分)」なのですが、面白いのは冒頭。「Prelude with excerpts from Kullervo」と題して、「クレルヴォ」のメロディーと、フィンランド民謡などのメロディーをミックスした前奏曲(のようなもの?)が演奏されます。編曲は指揮のダウスゴーさんともう一方によるものだそうです。「クレルヴォ」の断片が出てきては消えて、フィンランド民謡(タイトルがわからない。聴いたことがあるような…)も出てきて、カンテレの音も聴こえる。でもすぐ消えて行く。不思議な音楽です。その後、「クレルヴォ」全曲が始まります。(17分から「クレルヴォ」です)

 「クレルヴォ」は、ゆったりとした演奏で、壮大な世界観にぴったりです。第3楽章の男声合唱、ソプラノ、バリトン、は暗めのトーン。ずっしり、というよりは、しっとりという感じ。ウェットな空気の暗い森の中のような。「クレルヴォの嘆き」の部分も落ち着いています。あと、金管の存在感が強いなと感じました。図太い。全体的に骨太な演奏だと感じました。

 まだまだ聴けるので、何度か聴き込みたいです。

【これまでの「クレルヴォ」シリーズ】
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その1
 パーヴォ・ベルグルンド:指揮、ボーンマス響盤
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その2 P.ヤルヴィ盤
 パーヴォ・ヤルヴィ:指揮、ロイヤル・ストックホルム・フィル盤
もうひとつの「クレルヴォ」
 番外編:レーヴィ・マデトヤの交響詩、アウリス・サッリネンのオペラ
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その3 バレエのクレルヴォ?
 ユッカ=ペッカ・サラステ:指揮、フィンランド国立歌劇場管弦楽団、バレエ付き。
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その4 ヴァンスカ盤
 オスモ・ヴァンスカ:指揮、ラハティ交響楽団
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その5 N.ヤルヴィ盤
 ネーメ・ヤルヴィ:指揮、エーテボリ交響楽団
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その6 パヌラ盤
 ヨルマ・パヌラ:指揮、トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団
[シベリウス生誕150年記念]クレルヴォ交響曲を聴こう その7 ベルグルンド&ヘルシンキフィル盤
 パーヴォ・ベルグルンド:指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

[フィンランド独立100年記念]続・シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう スロボデニューク&ラハティ響
 ディーマ・スロボデニューク:指揮、ラハティ交響楽団 (2017年 シベリウス音楽祭より)
[フィンランド独立100年記念]続・シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう ロウヴァリ&エーテボリ響
 サンットゥ=マティアス・ロウヴァリ:指揮、エーテボリ交響楽団 (2017年の演奏会より)
[フィンランド独立100年記念]続・シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう サロネン&ロスフィル
 エサ=ペッカ・サロネン:指揮、ロスアンジェルス・フィルハーモニック

[フィンランド独立100年記念]続・シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう オラモ&BBC響
 サカリ・オラモ:指揮、BBC交響楽団(2015年プロムスでのライヴ録音)
[フィンランド独立100年記念]続・シベリウス クレルヴォ交響曲を聴こう リントゥ&フィンランド放送響
 ハンヌ・リントゥ:指揮、フィンランド放送交響楽団(2017年、フィンランド放送響のフィンランド独立記念日コンサートより)
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by halca-kaukana057 | 2018-05-22 22:53 | 音楽

神さまたちの遊ぶ庭

 先日読んだ、宮下奈都さんの「羊と鋼の森」。この作品に関係する本を、「羊~」を読む前に読んでいました。「羊~」を読んだ時、あの本!とすぐに出てきて驚きました。
羊と鋼の森


神さまたちの遊ぶ庭
宮下奈都/光文社、光文社文庫/2017

 2013年、宮下さん一家は2年間、北海道の帯広に引越し、暮らすことに決めていた。が、宮下さんの夫が、帯広ではなく、もっと大自然の中で暮らさないかと提案してきた。大雪山国立公園のふもとにある、トムラウシという集落で暮らさないかと言うのだ。山の中にあり、牧場がある。僻地で、併置の小中学校の全校児童生徒は10人。山村留学制度があって、他の地域からの児童生徒を受け入れている。こんなところで大丈夫なのだろうかと心配する宮下さんだが、3人の子どもたちは乗り気。トムラウシに行くことに決まった。中3の長男の高校受験のことを考えて1年間。そして4月、トムラウシでの生活が始まった。

 「羊と鋼の森」の、主人公・外村がこのトムラウシがモデルの山の出身ということになっています。山で生まれ育ったことが、外村にとって重要な要素になって出てきます。驚いた。トムラウシで暮らしたことで、小説も生まれた。

 私は一度、僻地で働いたことがある。トムラウシほどの僻地ではないが、賑やかな町からは遠く離れ、静かな山の中にあった。仕事をする上で不便なこと、不利なことは沢山あったが、町では出会えないことも沢山あった。雨上がりの中を通勤中、虹の「根元」を見たことがあった。近くの畑に熊が出たとか(熊に出くわしたことは幸いにして?なかったが)、蛇に遭遇したこともある。私の住んでいるところも田舎だが、町なので近くにスーパーもコンビニも本屋などもある。病院もちゃんとある。田舎だから、自然も適度に近いと思っている。が、僻地の自然はそんなものではなかった。僻地は山を下りないとコンビニは勿論、小さな商店もない。何か足りなくて、ひとっ走り…というわけにいかない。私にとっては、不便で、その不便さが仕事に悪い影響を与えていたこともあり、もう僻地で働くのはごめんだと思うし、住むのは論外だと思っている。
 ただ、僻地にも人は住んでいて、そこでの暮らしを支えるために働く人もいるのだと感じました。

 なので、この本を読んで、僻地の不便なところが気になってしまい、最初読んだ時はいい印象がなかった。買い物も困るし、トムラウシは携帯電話は勿論圏外。テレビも雪が降ると映らない。新聞配達も来ない。病院も診療所しかない。そして、北海道の山である。とにかく寒い。文明に助けられている私にとっては、住むのは難しい、とても厳しい場所に感じられた。

 だが、宮下さん一家はトムラウシでの暮らしを楽しんでいる。集落の人々や小中学校の先生方に助けられ、山の暮らしのペースに徐々に慣れていく。山の人々は皆優しくて、心が広くおおらかだ。宮下さんと同じように、山村留学で来て、何年も暮らしている人もいる。子どもたちは順応が早い。少人数の学校は、時間割やカリキュラムに余裕があり、活動内容に幅がある。3人のお子さんたちが皆マイペースで、ゆるくて、ユーモラスで笑ってしまう。何かズレている。私も宮下さんのようにツッコミたくなる。何より、自然が豊かだ。川の魚や山菜(毒のある植物もあるので注意は必要)。寒さや雪の表情も繊細。厳しくはあるが、その分、様々な表情がある。外に出れば、何かがある。町にはないことがたくさんある。

 山の学校はおおらかだが、何をしてもいいというわけではない。子どもたちの遊び方の安全に関して学校と集落で話し合いをしているところは、ゆるさは全くない。子どもたちの自由、子どもたちの安全を思うからこそ、議論は白熱する。山の暮らしは、大人と子どもが近いのだと感じた。集落の大人が全員、子どもたちのそばにいて関わっている。町ではそうはいかない。子どもに無関心な人もいる。大人と子どもという関係だけでなく、全ての人と人の関係において、無関心な人はいないと感じる。孤立することはありえない。孤立したら、この自然、環境ではきっと生きていけないから。

 マイペースに学べる少人数の学校だが、問題もある。人数がいないので、団体競技のスポーツが困難。特に高校受験を控えている長男は、山を下りた規模の大きめの学校でテストを受ける必要がある。修学旅行もその学校に混ぜてもらう。集落全体が家族のような雰囲気なので、「友達を作る」ことをしなくても友達になれてしまう。なので、中学を卒業後、山を下りて高校に進学すると、大人数の社会に馴染むのが大変、うまく馴染めないことも少なくない。帯広の進学校に進学した高校2年生のなっちゃんのエピソードには、言葉を失ってしまった。

 メリット、デメリットと分けて書いてしまったが、メリット、デメリットと考えてしまうのは何か違う気がする。外から見たら、いいところ、悪いところと言えるけれども、トムラウシの人々にとっては、そこでの暮らしがそのものだ。何ものにも変えられない。これがトムラウシの暮らしなのだから。トムラウシで暮らしていることが、幸せなのだ。2回ぐらい読んで、外野がそれにどうこう言うのは違うなと思うようになった。

 宮下さん一家が、トムラウシで暮らすのは1年と決めた。が、実際に期限が近づき、どうするかを決めるあたりも、宮下さんがトムラウシの暮らしの幸せを満喫しているからこその悩み、つらさなのだと思う。長男の高校の問題もある。この現実も、デメリットと切り捨てるのは違うと思う。そこをどう受け入れるか、なのだと思う。

 子どもたちのマイペースでユーモラスな発言でゆるくて読みやすいエッセイですが、ハッと思うところも多い。数日間滞在しただけではわからない自然の描写、季節の移り変わりの美しさも、文章だけで伝わってくる。エッセイというところがいい。写真がひとつもなくても、その美しさや楽しさが伝わってくる。日本には、まだまだ知らない場所がある。実際に行ける場所は限られるから、こうやってエッセイで読むのは貴重だと感じました。

◇関連記事:毎日新聞:きょうはみどりの日 作品紹介(その1) 映画「羊と鋼の森」 自然は人を幸せに 北海道・トムラウシ出身の青年が主人公
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by halca-kaukana057 | 2018-05-17 23:08 | 本・読書

私にとって、「感想」を表現するって、何だろう

 先日読んだ本「羊と鋼の森」(宮下奈都)で思ったこと。感想記事にも少し書きました。この本を読んで思うことは色々あった。ピアノのこと、ピアノを弾いていた時のこと。そして、音楽のこと。
・その感想記事:羊と鋼の森
 上記記事から引用します。

 以前、今もまだ続いているが、聴いた音楽の感想が出てこなくなった時期があった。感想を出すのが怖いのだ。外村が調律がうまくならなかったらどうしよう、怖いと思ったように。この演奏は、「いい演奏」か「悪い演奏」か、叩き切るように判断できなければならないと思って、それがわからず、感想を言うのが怖くなった。感想が他の人…ズバッと感想を出している、しかも説得力のある感想を出している人と違えば、自分は間違っていると思えてしまう。その作品を初めて聴く、聴いたことがなくて、判断できないこともある。いい曲だとは思ったけど、感想は…?「いい」「よかった」、でいいの?それだけだと足りない、弱いのではないか。判断基準が自分ではなく、他の人になってしまい、音楽は聴いても、その感想を出すことはなかった。そもそも自分に判断する権利はあるのか。音楽経験も少なく、叩き切るような感想を出せるような説得力も知識も読解力もない。音楽を聴くのが辛かった時期を思い出した。

 過去にも、こういうこと、似たことについて、思うことがあって、ブログに書いたことがありました。
「優劣」はどこから来る?(2014.3.16)
読解大会、もしくは読解合戦(2015.3.5)
表現することが「わからない」(2016.1.5)

 かなり前から定期的に?思っていることですね。まだ、解決できていない、答えを出せていない、トンネルを抜けきれてない。

 これらを読み返して、「羊と鋼の森」も読み返して、考える。「羊と鋼の森」でこんな箇所がある。主人公の外村は駆け出しのピアノ調律師。高校生の時、偶然ピアノの調律に立ち会って、初めてピアノの調律に触れて、調律師になりたいと思った。山奥で生まれ育ったため、それまでピアノについて何も知らなかった。ひたすら勤務している楽器店のピアノを片っ端から調律し、先輩調律師について調律の現場で学び、夜はピアノ曲のCDを聴いてピアノ漬けの日々を送っている。そんな外村が生まれ育った環境ゆえ町の子どもたちなら当然のように触れられるものを、「あきらめる」「素通りする」ことが多かったと回想するシーン。
 
 あきらめようと思えるまでに時間がかかったものが、ひとつだけあった。絵だ。僕には絵がわからなかった。(中略)きれいだな、おもしろいな、と思うことはあっても、そこまでしかたどり着けなかった。きれい以外の絵のよさがほんとうにはわからない。先生からは好きな絵を一枚見つけるよう言われたけど、それも違うんじゃないかと思った。色がやさしいとか、なんとなく雰囲気が好きだとか、そういうことで絵を観ては間違うような気がした。
 もしかしたら、それでよかったのかもしれない。この絵が好きだと思えればそれでいい。いい気分になれればそれでいい。絵がわからないとか、そんな観方じゃいけないとか、自分で自分を窮屈にすることなどなかったのだろう。でも、僕はあきらめたのだ。絵は、わからない。わかったようなふりをしてもつまらない。
(95ページ)
 (中略)
 好きだとか気持ちがいいだとか、自分の中だけのちっぽけな基準はいつしか変わっていくだろう。あのとき、高校の体育館で板鳥さんのピアノの調律を目にして、欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった。わかりたいけれど無理だろう、などと悠長に考えるようなものはどうでもよかった。それは望みですらない。わからないものに理屈をつけて自分を納得させることがばかばかしくなった。
(96ページ)

 外村の絵の観方は間違いではないと思う。自分で自分を窮屈にしていると思う(大ブーメラン、自分もです)。でも、外村には「わからなかった」。「わかったようなふりをしてもつまらない」。自分の観方は間違っている。そんな考えから抜け出せなかった。この外村が悪いわけじゃない。どんなに間違ってない、それでいいと認められたとしても、自分で納得がいかなければ本気になれない。自分に無理強いしても辛いだけだ。
 でも、外村にとって、ピアノは違った。わかるとかわからないとかという基準のものではない。わかりたい、あきらめたくない。自分にとって要るものはこれ、ピアノだ。

 私も、音楽にしろ絵にしろ本にしろ、感想が出てこなかったのは「わかったふり」をするのが怖かったのだと思う。そんな観方、聴き方、読み方じゃいけないと、自分を追い詰めていたんだと思う。何がきっかけで…他者の優れた(これも私の主観としか言いようがない)感想に比べて自分はここまでしか読み込めないのか、と落胆したこと。感想を出すなら、もっと立派で説得力のある、独創性のある、誰が読んでも面白いものを…。これは、理想ではあるけれども、「自分の中だけのちっぱけな基準」じゃないかとも思う。感想を書いて、何をしたいのか。かつてはツイッターをしていて、共有を意識していたけれど、それはもう終わった。このブログでは、コメント欄も閉じている。誰かと感想を交わしあいたい…自分の感想もままらないのに、誰かの感想を受け止める心の余裕は今の私にはない。まだ、ここのコメント欄は閉じていたい(他にも理由はありますが)。自己顕示欲…少しはあると認める。ないわけじゃない。でも有名になりたいとかは思わない。ただ自分が何を考えているか、「何処」にいるのかを記したい。その際、ブログで公開する必要はあるのか、自分だけのノートに書くだけでもいいんじゃないのか、と思うようにもなってきてはいる。読み返す時、過去ログを探しやすい、公開することを意識するから、文章や、思考のまとまりに気を遣うなどの利点はある。コメント欄は閉じているけど、何かのきっかけで立ち寄った誰かが、同じ本を読んだり、音楽を聴いたりして、この人はそう思ったんだな、と読んでくれれば嬉しい。同じことを思った、それは思いつかなかったなどと思ったらもっと嬉。

 好きなものをとにかく語りたくて、始めたブログ。今もその気持ちは変わらない。ものすごく好きなものに出会えたら、それについて語りたい。共有とか共感とか関係ない。「自分の中だけのちっぽけな基準」「自分で自分を窮屈にする」ということは考えなかった。純粋な気持ちが前に出ていたけれど、書けば書く程、内容にも凝るようになる。それは、文章や読解の面の成長のあらわれだと思う。前よりも沢山読んだ、聴いたのだから、成長していって当然だと。過去の感想を読んで、今のものと比べて、劣化したと思うことがある。記事数、更新頻度が減って、衰えたと思ってしまう(辛い)。

 そんな状態ではあるけれど、本は読み続けているし、音楽も聴き続けている。面白い、いいなと思うものは次々出てくる。あきらめたくない。わかりたい。無理強いではない。好きだから。接して、やっぱり好きだと思うから。

 感想が出てこない、書けない。どうしたらいいか。
 ひとつ。今はもう他の人の感想を前もって読むことはなくなったのだが、まずは自由でいいと思う。恐れずに。自分の思ったことを、まず言葉にしてみたらいいと思う。
 ふたつ。私が劣等感を抱いているのは、読む本にしろ、聴く音楽にしろ、接したことのないものがとにかく多い。有名作品でも知らない、接したことがない、接したことはあるけど1回程度…経験値が足りない。とにかく沢山のものに接したい。クラシック音楽は大人になってから聴き始めた。ピアノは子どものころ習っていたけど、熱心ではなかったから、加点にならない。本も知らない作家ばかりだ。私はスタートが他の人に比べて遅いと思っている。だから、まず量を増やす。
 みっつ。言葉の語彙を増やす。多彩な表現ができるように、でもあるし、自分の中にある微妙な感情を、ぴったり当てはまる言葉を多く持っていたい。
 よっつ。「感想を書くため」と意識しない。意識すると出てこない。
 いつつ。関係ない、とバッサリ切り捨てない。どんなものも、どこかで何かしらに繋がっている。その繋がりがわかれば、読み解きも広がり深まり面白くなる。自分の接するものは、全て何かに繋がっている。
 まだありそうだけど、今はこの5つ。

 基準は自分がつくればいい。「こう思った」のなら、それが基準だ。基準はどんどん変化していくと信じて。言葉も、それにつれて変化、成長していく。鍛錬、修行だ。つらいこともあるけど、つらいことだけじゃない。楽しくて、好きだからやっている。つらい気持ちしか出てこなくなったらやめる。もし、そうなったら、このブログもやめる可能性があります。でも、今はそれは考えずに。自分で自分を窮屈にしない、難しくしない、つらくしない。

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by halca-kaukana057 | 2018-05-13 23:00 | 日常/考えたこと

【重要なお知らせ】エキサイトブログのRSSフィードが仕様変更になったらしい

 このブログを、RSSリーダーで読んでくださっている方へお知らせです。5月7日から、エキサイトブログのRSSフィードの使用が変更になったそうです。

エキサイトブログ向上委員会 :(追記あり)【ご確認ください】RSSフィードの仕様変更について

 今まで、エキサイトブログのRSSでは、このURLが使えていました。
http://rss.exblog.jp/rss/exblog/thurayya65.exblog.jp/index.xml 
     
       ↓
 これが、こう変更になりました
https://thurayya65.exblog.jp.exblog.jp/index.xml

 ということで、RSSフィードが届かなくなった、おかしいと思ったら、この新URLに変更をお願いします。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

 でも、私も確認用に自分のブログをRSSリーダーに登録しているのですが、変更しなくても新URLになっているんです。他のエキサイトブログも。はて?
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by halca-kaukana057 | 2018-05-10 22:48 | information

北国の春 2018

 今年の桜は、早咲きになるかと思ったら、咲く直前で気温が低くなり、平年よりは早めだけどそれほど早咲きにならない…と思ったら、桜が咲いたら気温が上がって一気に満開になりました。ソメイヨシノに続くシダレザクラや八重桜も前倒し気味。よくわからない天気に振り回された今年の桜でした。

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まずはソメイヨシノ。のんびりとお花見をしました。

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シダレザクラ。風が強くて撮影が大変でした。(ソメイヨシノが長く楽しめなかったのは強風のせいもある。何故桜が咲くと、強風になるのか)

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八重桜。八重桜は少しの強風でもそんなに散らないので長く楽しめます。

 そろそろ、ライラックやナナカマドの花も咲き始めています。5月、春から夏への間の時期、一番好きな季節です。
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by halca-kaukana057 | 2018-05-10 22:17 | 日常/考えたこと

羊と鋼の森

 宮下奈都さんの作品を。1年ぶり?話題になったこの本が文庫化されたので読みました。


羊と鋼の森
宮下奈都 / 文藝春秋,文春文庫 / 2018(単行本は2015)

 北海道の田舎の山で生まれ育った外村は、高校生、17歳の時、たまたま担任から来客を体育館に案内するように頼まれる。やって来た来客はピアノの調律師の板鳥宗一郎。外村は初めてピアノの調律を見て、調律に魅せられる。板鳥に弟子にしてほしいと頼むと、調律師の学校を紹介され、勉強し、卒業後、板鳥が働く楽器店に新人調律師として採用された。毎日、店のピアノを調律し、練習を重ねる。先輩の柳について、主に一般家庭のピアノの調律について回り、学ぶ。一方、秋野は違うスタイルで調律をしている。時々、板鳥にアドバイスを貰う。どんな調律が求められるのか、理想の調律は何か、外村は毎日ピアノと向き合う。


 以前読んだ「メロディ・フェア」と同じく、お仕事小説ではありますが、雰囲気は全く違います。今回はピアノの調律師。主人公の外村は、板鳥の調律に出会うまで、ピアノを弾いたこともよく聴いたことも無く、調律に接するのは勿論初めて。板鳥の調律に偶然立ち合ったことで、いわば運命的な出会いをする。

 ピアノは家にあるので、大人になってからの調律の際にはいつも立ち会っています。トーン、トーンと音を出しながら、調律をしていくのを見ているのは好きです。調律の際の、静けさも好きです。まさに、その調律中の静けさが漂う本です。以前はこのブログのピアノのカテゴリに書いてあるぐらいピアノを弾いていましたが、今はピアノを弾かなくなった。諦めてしまった。これ以上、どうやって進んだらいいかわからない。弾きたい曲はあるけれど、どうやったらたどり着けるのかわからない。そのままピアノから離れてしまいました。今は声楽の練習で、音を取る程度。なので、家のピアノには申し訳ないと思っている。この本を読み進めるのは辛かった。外村も、他の登場人物も、ピアノが好きで、ピアノと向き合っている。もうピアノには熱心になれない(かもしれない)自分には、辛い作品でした。
 そして、ピアノにあまり熱心ではなかった子どもの頃の自分が、外から見ればどう思われていたのだろうと思って辛くなった。外村がもうひとりの先輩調律師・秋野に付いてある家庭のピアノの調律に行った時のこと。ピアノにはバイエルの楽譜が置かれているが、秋野は椅子の高さからその子がもう高学年であることを悟る。高学年にもなってバイエルレベル…ピアノにあまり熱心でない、という。私がまさにそんな子どもだった。ピアノは好きだったけど、練習はあまり好きでは無い。練習してもうまくいかない。自分に合った練習方法、ピアノとの向き合い方がわからなかったのだと思う。小学校低学年からピアノを始めたのに、上達せず、小学校高学年、中学校になってもバイエルレベル。ピアノ教室の先生や、調律師さんにどう思われていたんだろうな…と辛くなった。

 その調律師さんが何をしていたのか。この本を読んで、そういうことをしていたのかとわかりました。調律の過程の描写がかなり詳しく書かれています。何のためにこんなことするのか、どう調律するのか。ピアノの部品についても。タイトルの意味がわかります。以前もどこかで書いた記憶があるのだが、ピアノは他の楽器と違って、弾く人が自分で調律できない。調律師が調律する。基本的に持ち運ぶ楽器ではないので、その場所にあるピアノを、どんな音にしたいか、調律師に伝えて調律してもらう。ピアノは特殊な楽器だなと思う。

 この作品では、ピアノを「森」と表現するが、音楽が「森」のような深いものだと思う。調律に「正解」はない。調律の際に基準音となるラ(A)の周波数は440Hzと言われているけれども、その演奏者や演奏する作品によって微妙に上下する、いや、微妙どころではなくなってきているそうだ。また、外村と柳のピアノの調律とうまいレストランの例えの話にもあったように、客と調律師でピアノの音に対して考えが違うこともある。
 以前、今もまだ続いているが、聴いた音楽の感想が出てこなくなった時期があった。感想を出すのが怖いのだ。外村が調律がうまくならなかったらどうしよう、怖いと思ったように。この演奏は、「いい演奏」か「悪い演奏」か、叩き切るように判断できなければならないと思って、それがわからず、感想を言うのが怖くなった。感想が他の人…ズバッと感想を出している、しかも説得力のある感想を出している人と違えば、自分は間違っていると思えてしまう。その作品を初めて聴く、聴いたことがなくて、判断できないこともある。いい曲だとは思ったけど、感想は…?「いい」「よかった」、でいいの?それだけだと足りない、弱いのではないか。判断基準が自分ではなく、他の人になってしまい、音楽は聴いても、その感想を出すことはなかった。そもそも自分に判断する権利はあるのか。音楽経験も少なく、叩き切るような感想を出せるような説得力も知識も読解力もない。音楽を聴くのが辛かった時期を思い出した。
 このことに関しては、別記事で書こうかなと思います。収拾がつかない。
 「正解」がない、と言われると、困ってしまう。でも、判断基準は自分にある。こんな音が理想だ、こんな音がいい。この人にはこんな音がいいのではないか。そんなお客の要望に応えて、調律する外村や柳、秋野、そして板鳥の一生懸命な姿に励まされる。

 この作品では、「諦めること」「あきらめないこと」の2つに分けられることが出てくる。田舎の山で育った外村は、環境の上で諦めなければならないことも多かった。でも、調律師になり、ピアノと調律は諦めたくないと思った。板鳥にも諦めないことが大事とアドバイスされた。外村の先輩調律師の秋野は、ピアニストを目指していたが、諦めて調律師になった。柳が担当する高校生の双子、和音と由仁に起こったある出来事と、そこから諦めること、諦めないことが生まれる。
 諦めることで、新しい何かが始まることもある。諦めることで、可能性を閉ざしてしまうこともある。諦めないことで、進めなくなった道とは違う、別の道を見出すこともできる。諦めることと諦めないことが紙一重になっている。

 外村は、時々調律をキャンセルされる。理由は様々だ。キャンセルされると落ち込むが、それでも調律することをやめない。外村の静かな生真面目さがいい。外村だけでなく、この作品に出てくる人々は皆、生真面目だ。それぞれのやり方で、ピアノと向き合っている。
 外村のまだ未熟な調律の結果を、ただ失敗と言わず、こんな音にしたかったんだよね、このやり方は好きだ、と認めてくれる双子の和音と由仁。いい耳を持っているだけでなく、ピアノに真剣に向き合っているから、その外村の音がわかるんだろうな、と思う。外村に影響を及ぼし、外村から影響を受ける2人。この双子の存在もいいです。2人ともいい子です。

 外村がピアノ作品にはあまり詳しくないという設定なので、ピアノ作品について詳しいことはあまり出てこなかったのはちょっと物足りなかった。あくまで調律が主役なのだな、と。なので、作中のピアノリサイタルの箇所や、最後の部分の印象が弱く感じた。ちょっと淡々とし過ぎているなぁ…とも。でも、この静かな雰囲気は好きです。


 この本を読む前、宮下さんの別の本を読んでいたのだが、共感できない部分があって、感想を書けずにいた。その後、この作品を読んだら、とても関連があることがわかった。なので、その本についても感想を後日書きます。
 この本です。

神さまたちの遊ぶ庭 (光文社文庫)

宮下 奈都/光文社



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by halca-kaukana057 | 2018-05-03 23:23 | 本・読書


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