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アバドのたのしい音楽会

 先日亡くなられた指揮者、クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)。その訃報が流れた時に、この本の存在を知りました。アバドの演奏と共に読んでみました。


アバドのたのしい音楽会
クラウディオ・アバド:文/パオロ・カルドニ:絵/石井勇・ 末松多壽子:訳/評論社・児童図書館・絵本の部屋/1986

 アバドが子どもたちに音楽の魅力や楽しさを優しく語りかけている本です。音楽一家に生まれ、子どもの頃から音楽に囲まれて暮らしていた。ヴァイオリニストの父の演奏、更にはミラノ・スカラ座オーケストラを聴いて感動し、指揮者になりたいと決意。それからピアノを習い始め、家族でも、様々な機会でも演奏をし、そして指揮者になった。
 後半は室内楽やオーケストラの規模や仕組み、楽器の種類とそれぞれの個性、指揮者の役割、オーケストラやオペラの練習と本番など、詳しく親しみやすく説明してある。


 ヴァイオリニストの父が練習・演奏するのをそっと見て、聴いていた。その父がヴァイオリンを演奏している時の表現が素敵だ。
ある日、魔法のような音にひかれて、居間にそっと近づいてみると、ドアがちょっと開いていて、なにかぼくにはわからない言葉でバイオリンに話をさせているパパが見えた。それは、とても美しい言葉だった。ぼくは、ドアのかげにかくれたまま黙って聴いていた。パパとバイオリンとの魔法の対話を邪魔してはいけないと思ったからだ。
(4ページより)

 そしてミラノ・スカラ座でのコンサートを聴いて、指揮者になると決意し(後に本当にミラノ・スカラ座を指揮する指揮者になってしまうのだから凄い)、ピアノを習い始める。ある日父のヴァイオリンの伴奏をすることになった時の話も印象深い。思うようにいかない。ヴァイオリンについていけない。その時、父がこう教えてくれた。
誰かといっしょに音楽をやるときには、自分がうまく弾けるとか、よい耳を持っているとかいうことはそれほど重要ではない。音楽的”対話”のある伴奏とは、その会話を感じとり、受けいれ、その神秘的な意味の端々まで完全に理解することなのだ。音楽においても日常生活においても、ほかのひとの言うことに耳を傾けることが最も大切なのだ
(15ページ)

 父が大事にしていた音楽的”対話”。耳を傾け、意味を理解しようとする。音楽というものを、とても神聖な、手で優しく包み込むような大事なものと考えて、指揮・演奏されていたのだなと思う。ちなみに、音楽評論家の故・黒田恭一さんの「尋ねる耳」の話を思い出しました。

 指揮者の役割や、オーケストラの仕組み、楽譜や楽器のこと、コンサートまでの練習…特にオペラについては詳しく書いてある。指揮者は一体何をしているの?オーケストラはその指揮者の何・どこを見て演奏しているの?オーケストラには色々な楽器があるけど、それぞれどんな楽器なの?オペラって何?交響曲・協奏曲って何?どんな練習をしているの?…普段からクラシック音楽に親しんでいる人ならなんてことないことだが、高尚で、近寄りがたい雰囲気がする…クラシック音楽家って一体どんな人たちなの?そんな疑問にも答えてくれます。これは子どもたちだけでなく、大人にも一読をおすすめしたい。もし、初めてクラシックコンサートに行く機会が出来たなら、この本を読んでから行くことをおすすめします。楽器のイラストも精巧で、きれい。弦楽器やオーボエ、トランペットなどの精巧なスケッチがとてもきれいで、見惚れてしまいました。全体像を見たい、全部の楽器で見たい!と思うほどでした。楽器って、描くのが本当に難しい…。

 最後に、アバドから、音楽家を志す人、よい聴衆になるであろう人々へのメッセージが書かれています。音楽を「聴く」とは。作曲された作品、音楽と実社会は常に密接な関係を持っていること。そして、もしよくわからない音楽に出会った時に心に留めておいてほしいこと。
君たちが、なんだかよく理解できそうもない音楽を、初めて聴いたとき、「つまらない」の一言で片付けてしまわないでほしいということです。私も、現代の新しい音楽を耳にして、まごつくことがあります。それでも、自分が理解できなかったからといって、一方的にドアを閉じることはしません。私は、どんな音楽も、よく聴いて学ぶ努力をしています。その音楽も一つの表現として、私たちの時代を、歴史を、そして私たち自身を語っているのだと確信しているからなのです。
(49ページ)


 私は、アバドの訃報を知るまで、それほどアバドの演奏を聴いてこなかった。全く恥ずかしいことに、アバドが大指揮者であることも知らなかった。何曲かは録音は持っていたので、訃報の後聴いてみた。そして、今、オペラも聴き始めたこともあって、アバドの演奏に前よりも耳を傾け始めた。好きな演奏も見つけ始めている。訃報の時、twitterでアバドの来日公演に行った、生であの演奏を聴いた、というツイートをいくつも見かけた。私にそのチャンスは無い。CDやDVDなどで触れるしかない。しかし、それらの演奏・指揮をしていた時、アバドはこの本に書かれていることを忘れずに演奏していたのだろう。アバドの演奏を聴いて、アバドがその時代を、歴史を、この世界をどうとらえて、どう表現しようとしていたか、じっくり耳を傾けたい。

 アバドは、若手の育成にも力を入れていた。ユースオケを作り、指揮をして支え、若い音楽家たちを育てていた。この本も、そんな気持ちで書かれたのだろう。アバドが伝えたかったことは、演奏でも、この本の言葉でも、残って受け継がれていっている。今更かもしれないけれど、私もアバドの言葉・音楽に触れられてよかった。

 この本の中で、アバドが子どもの頃ミラノ・スカラ座で聴いて感動したという、ドビュッシー「ノクターン」(Nocturnes)より第2曲「祭り」(Fêtes)。聴いたことが無かったので、探しました。
C. Debussy - Nocturnes ( Fetes at Argenteuil ) - Claudio Abbado

 トランペットに、近づいて遠ざかる音に、ワクワクする。子どもの頃の感動を思い出しながら演奏していたのかなぁ。


 ちなみに、昨日、こんなことを書いたけれど、この本を読んで、「優劣」「うまい・へた」よりも気にすべきことがあると実感しています。もっと大事なことがある。
by halca-kaukana057 | 2014-03-17 22:55 | 本・読書
 これまで何作品か読んできた宮下奈都さんのエッセイです。初めてのエッセイ本なんだそう。


はじめからその話をすればよかった
宮下奈都/実業之日本社/2013

 これまで、宮下さんが新聞や雑誌などに寄稿したエッセイ、他の作家さんの作品の解説などを収録したものです。こういう形でエッセイをまとめて読めるように単行本にしてくれるのはとても嬉しい。宮下さんの出身地である福井の地元紙や、過去の雑誌への寄稿など、その時を過ぎれば読めないもの、地域限定のものに、こんな文章を寄せていたんだと思いながら読みました。

 これまで、私は宮下さんを独身女性だと思っていた。しかし、宮下さんは3人のお子さんのお母さん。小説を書き始めたのは、3人目のお子さんがお腹にいた時。その妊娠している時、無性に小説が書きたくなって書き、見事デビューできたのだそうだ。それを「ホルモンのせい」と書いているのが面白い。
 妊娠していなくても、無性に何かをしたくなる時がある。ただ寝ていたい、ひたすら旅をしたい、音楽を聴く…それも特定の作曲家だけや特定の曲の聴き比べ、とにかく料理をしたい、運動したい、歌いたい・演奏したい、読書したい、そして、文章を書きたい。私も無性に文章が書きたくて、思うことを思うまま、ノートやワードで書いている(表には出さない)。

 エッセイの内容は、日常のことも多い。宮下さんはこんな暮らしをしていて、こんな本や物語、音楽が好きなんだ。そしてその中に、これまで読んだ宮下さんの作品に繋がるものがあって「これは!」と思う。ああ、この作品はこんなところから生まれたんだ。宮下さんご自身が自作を解説するものもある。といっても、まだ宮下さんの作品は数作しか読んでいない。これから読むのが楽しみになった。

 エッセイだけでなく、掌編小説もある。「オムライス」が凄くいいなと思った。何だかわからないけど、何かと出会い、それが自分をつくっていく。私にとっての「オムライス」は何だろう?そんなことを考えた。「あしたの風」は、宮下さんもこんな作品を書くのか…詳しいあらすじは書きませんが、宮下さんの視点で今の社会、この国の行き先を考えるとこうなるのか…としばらく考え込んでしまった。

 宮下さんにとって、書くことが生きること、生きることが書くことなのだと感じた。宮下奈都、素敵な作家さんに出会えた、これからの作品を読むのも楽しみだと感じました。

 ちなみに、漫画「宇宙兄弟」のムックに寄稿した文章もあり、お子さんたちは「宇宙兄弟」が大好きなのだそう。様々なタイプの宇宙飛行士になりたいと言っているのを読んで、宇宙好きとして嬉しくなりました。

 宮下さんの作品は、これも読んだのだが、感想がまとまらず書けてない…

田舎の紳士服店のモデルの妻 (文春文庫)

宮下 奈都 / 文藝春秋


 このエッセイを読むと、この作品の背景が広がった気がする。もう一度読んでみる。
by halca-kaukana057 | 2014-02-14 22:50 | 本・読書

物語ること、生きること

 「守り人」シリーズ、「獣の奏者」シリーズでお馴染みの上橋菜穂子さんのエッセイが出ました。


物語ること、生きること
上橋菜穂子/瀧 晴巳:構成・文/講談社/2013

 上橋菜穂子さんの元には、子どもたちから沢山の手紙が届くという。「どうやったら物語を書けるようになりますか」「どうやったら作家になれますか」「『獣の奏者』や『精霊の守り人』みたいな話は、どうやって生まれてくるんですか」などなど。上橋さんも、子どもの頃から物語が、本を読むのが大好きで、物語をつくる人…作家になりたいと思ってきた。この本は、構成・文の瀧晴巳さんが上橋さんを取材し、語った生い立ちや作家になるまでをまとめたものです。

 上橋さんの物語は、壮大で、その世界の歴史や政治・経済・産業などもしっかりとつくられていて、でも現実世界でもありうる矛盾や闇の面もあり、それが物語に大きく関係してくる。そんな世界で自分の弱さと向き合いながら強く生きる人々の、それぞれの生きる道が細やかに描かれている。そして出てくるごはんがどれも美味しそう。こんな物語は、どうやったら書けるのだろう?私も何度も思った。文化人類学の研究者で、オーストラリアのアボリジニを研究している。「守り人」シリーズのバルサや、「獣の奏者」のエリンのように、広い世界で行動範囲の広い、視野も広い、思い切りのいい強い方なのかな、と思っていた。

 ところが、この本に書かれている上橋菜穂子さんは、子どもの頃に聞いたお婆様が語る物語や、数多の物語・本を読むのが大好きな、身体の弱い夢見がちな女の子だったのだそう。物語だけでなく漫画も大好き。学生時代ノートに漫画の落書きをしていたほど。物語と現実の境界が曖昧で、物語の世界に惹かれてばかりだった。人見知りで、小心者で、臆病で、外に出るよりも家の中で本を読んでいるほうがいい…とご自身のことを語っている上橋さん。
 驚きました。私も、その方が好きだから。外に出るのは勇気がいる。正直怖い。私も実は臆病で、心配性だ。失敗したら、傷ついたら…悪いことばかりどうしようと考えて不安になり、行動する前から心配ばかりしている。
 でも、上橋さんは、いつまでも「夢見る夢子さん」でいたくない、とえいっ!と外へ、本当の旅に出た。一歩を踏み出した。そのことが、文化人類学の研究でも、作家にも向かうことになった。この上橋さんのお話に、とても勇気づけられた。外に出てみないと、実際に行ってみないとわからないことが沢山ある。上橋さんが一歩を踏み出すために机の前に貼っていたという「言葉」には共感した。私も張っておこうかな。

 上橋さんが本を読んできて、感じたこと・考えたことに共感するところも多かった。2つ、いくつかの立場の境界に立っている人のまなざし・見方に惹かれるということ。
 特に惹かれたのが、この部分。引用します。
 境界線の向こう側には、まだ見ぬ地がある。
 もしかしたら「生きる」ということ、それ自体が、フロント=最前線に立つことなのかもしれない、と思ったりします。それぞれの生い立ちや境遇や、すごくいろんなものを抱えて、私たちは、いま、出会っている。誰もが自分の命の最前線に立っているのなら、それぞれに境界線を揺らす力、境界線の向こう側に越えてゆく力を持っているんじゃないか。
 相手を否定したり、恐れたり、あるいは自分の領分を守るために境界線を強くするのではなく、境界線を越えて交わっていこうとする気持ちを持てたら、どんなにいいだろう。
 私は、それを、子どもの頃からずっと願いつづけてきたように思うのです。
 そして、私の好きな物語に、もし共通点のようなものがあるとしたら、それは背景の異なる者同士がいかにして境界線をこえていくかを描いているところかもしれません。
(80ページ)


 この本では、上橋作品の引用も多くあります。引用されたシーンもですが、この内容ではこの作品のこのシーンかな?と自分でも他にも思い出しながら読んでいました。上橋作品の裏側、あのシーンにこんな想いが込められているとわかる本でもあります。

 また、研究職の方には、研究職の楽しみやつらさにも共感できる本かもしれません。私にとって、作家も憧れの職業ですが、研究職も憧れの職業でした。大人になって、研究職の方々の話を聞くと厳しい世界なんだなと思いますし、この本でも上橋さんが研究職も諦めそうになったエピソードは胸が痛みます。それでも、知の最前線をゆく研究職は、やはり私の中では憧れです。

 上橋さんの作品を読んだ後、その壮大さに圧倒されつつも、登場人物たちの生きる姿に清々しさを覚えるのですが、この本を読んだ後でも同じことを思いました。上橋さんご自身が、清々しく、力強く生きて、物語をつむいでいらっしゃるのだと。
 一歩を踏み出したい、広い世界を見たい。それを自分のやり方で表現したい、つくりたい。作家に限らず、そんな気持ちを呼び起こしてくれました。憧れを、形にする。自分の極限まで拡げて、掘り下げて、考えてみる。そして文章なり、何かにしてみる。
 上橋作品は、積読に何冊かあります。読みます。読むのが楽しみです。

 巻末には、上橋さんがこれまで読んできた本リストがあります。これはありがたい。

・全然関係ない(?)のですが、タイトルでこの本のことも思い出した:生きるとは、自分の物語をつくること
(小川洋子・河合隼雄)
上橋さんが、河合先生と対談したら、とても面白いことになったのではないかと思う…。
by halca-kaukana057 | 2014-01-31 22:22 | 本・読書
 お友達に教えていただいて、興味を持ったので読みました。


森のうた ―山本直純との芸大青春記
岩城宏之/講談社・講談社文庫/2003
(単行本は1987年朝日新聞社、1990年朝日文庫で文庫化)

 昭和27年、東京藝術大学の器楽科の2年生で打楽器を専攻していた岩城宏之さんは、作曲科の1年生にすごいのがいる、とその男を紹介された。初対面の挨拶は「イヨーッ」となれなれしく、服装もちょっと変わっていた。しかし、凄い才能の持ち主だという。それが、山本直純さんだった。

 親しくなった岩城さんと山本さんは、副科で指揮を選択する。その先生はあの渡辺暁雄さん。学内オケで実際に指揮をする授業もあったが、勉強不足で臨んでしまい、渡辺先生に怒られてしまう。そして何とか指揮がしたい、指揮をする機会をつくろうと、学内の有志のオーケストラ「学響」を立ち上げることに。最初は練習に誰も来ず、もどかしい想いをしていた2人だったが、徐々にメンバーも集まり始める。渡辺先生のもとでの勉強、2人で意見を出し合い批判しあったこと、「学響」での練習・指揮、恋の思い出、N響やカラヤン指揮のコンサートにもぐりこんだこと、「学響」の演奏会。2人の友情と音楽の日々が綴られています。

 岩城宏之さんに関しては、「フィルハーモニーの風景」などを読んでいた(感想を1記事も書いていないことに気がついた)。山本直純さんに関しては、以前読んだ「やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運・鈍・根」(小澤征爾・広中平祐)で「オーケストラがやってきた」で山本直純さんにも触れていた。とは言え、「オーケストラが~」を私は観たことが無く、岩城宏之さんの指揮した演奏もそんなに聴いたことがなく…世代なのかタイミングなのか、残念だなと思う。

 それでも、この本を読んでいて、一昔前の音大生のいい青春だな、と思う。お2人とも、こんな青春時代があって、この時期に沢山の音楽を吸収して、その後活躍していったのだから。山本直純さんがやりたい放題な性格で、岩城さんは少し冷静ではあるけれども、2人がとても痛快で笑える。いい学生の青春時代だ。

 一方、音楽ともなれば2人とも熱心。スコアはなかなか手に入らないけれども、有志オケを立ち上げて、最終的にはショスタコーヴィチの大作「森の歌」を演奏するまでにもなる。それまでの過程がとても熱い。いい熱さだ。渡辺暁雄先生が出てきたのにも驚いた。渡辺暁雄先生のシベリウスは愛聴しているので、こんな先生だったんだと一面に触れることも出来ました。

 そんな岩城さんが、音楽の道を志した経緯も語られます。戦時中、身体が弱かった子どもの頃。その頃ラジオで聴いた木琴奏者の平岡養一さんの演奏を聴いて、おもちゃの木琴から始まり、だんだん本格的に。高校生の頃からオーケストラで演奏もするほどになり、芸大を受験した。この芸大の受験の経緯やエピソードもまたとんでもない。今の時代では考えられない…。

 この本のあとがきで、岩城さんがこの本を書く経緯についても語っている。平成14年、山本直純さんは亡くなり、追悼番組も多かった。映画の音楽や、テレビ番組でも活躍した山本さん。それを観た岩城さんはこう書いている。
どれも確かにナオズミだった。でも、それは一面でしかない。ぼくは、この本を通してナオズミの音楽家としての本質、彼の指揮法への真摯な探究心を、今の人たちにも知ってもらいたいと考えたのだった。
(221ページ)

 私は残念なことにテレビで活躍する山本さんを知らない。もしかしたら、知らなくてよかったのかもしれない。今後、山本さんの生前の映像に触れることがあったら、この本のことを思い出したい。その山本さんは、この本に書かれた学生時代があったということを。

・関連:やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運・鈍・根
by halca-kaukana057 | 2014-01-27 21:48 | 本・読書

すてきな地球の果て

 雪も降り、白く凍てつく季節になりました。もうすぐ冬至。そんな季節に(夏でもいいですが)、この一冊を。

すてきな地球の果て
田邊 優貴子/ポプラ社/2013


 表紙の青と白…まずこの写真に惹きこまれました。青い、真っ青…ともちょっと違う、澄んだ抜けるような青。そして氷の白。白もただの白じゃない。青っぽかったり、灰色っぽかったり。なんて風景だ…。

 著者の田邊さんは植物生態学者。第49次・51次・53次日本南極地域観測隊で南極へ、また北極圏へも向かい、極地の植物・自然を調査観測、研究している。田邊さんが何故南極・北極…「地球の果て」に惹かれるようになったのか、そこで見た植物や動物たち、風景、調査観測の様子について書いたエッセイです。

 田邊さんは研究者であり、学者であり、極地の植物や自然に関しては専門家である。観光で南極・北極に行っているわけではない。専門の研究者・学者が研究対象の地をどう見て、どう表現するのか興味があった。意外にも、自然や極地で生きる生命への驚きや感激、感動に溢れていた。いや、そういう感情がきっかけになって極地に、そこに生きる生命に興味を持ったのだろうし、持ち続けていることが研究にも繋がっていくのだろう。専門の研究者だからこそ、こんな驚きがある、こんな美しいものがある、「地球の果て」は「すてき」なところだ…と活き活きと語ることが出来るのかもしれない。それから、田邊さんご自身のバックグラウンドも生きていること、命があることについて考えさせられるものだからこそ、更に活き活きと語ることが出来るのだろう。第1章でそれについて語る部分や、大学時代、ペルーで見た満天の星空や、アラスカでの体験とその感動について語る部分で、私も心を動かされた。大学院の頃、2度目にアラスカを訪れ帰国した後のことを、こう書いている。
 私は、そのよくわからない思いを必死に抑えつけた。が、抑えれば抑えるほど、さまざまなことに対して純粋に感動できなくなり、世界を面白くないもののように感じるようになっていった。それは、まるで心が凍ってしまったかのような日々だった。

 一年近く経った頃、私はある決心をした。
 ――感動や情熱を抑え込むことをやめてみよう。
 たったそれだけのことだが、私にとっては大きな決心だった。時間に追われている日々の生活の中、それがいかに難しく大変なことかもよくわかっていた。けれど、今、とにかくそうしなければいけない。それだけは確かだと思った。
(27~28ページ)

 この本で語られている南極・北極でのことも、田邊さんがそこで思ったことも、活き活きと語られているのは、こんな想いがあるからだと思う。情熱を、感動を、抑えつけないで表現しよう、と。

 そして、南極・北極へ。上記の引用した箇所で、「心が凍ってしまったかのような」とあるが、南極・北極での日々は田邊さんの心を解かしていったのだと思う。気温では、凍りついた世界が。
 南極と北極は同じ極地でも、雰囲気が違う。季節が異なっていたのもある。どちらにしても、生き物が生きるには過酷な環境。それでも、そこでも生きている生き物、生命がある。植物も、動物も、鳥たちも。キョクアジサシは、何と北極と南極を往復する渡り鳥。その翼だけで、とてつもない距離を飛び、渡る…驚くしかない。南極の淡水湖に潜ると、苔の「森」が広がっていた。その一方で、厳しい自然は容赦しない。どの生き物も生きるのに必死だ。そこで力尽きる生命も、勿論ある。

 人類の力の及ばない、まだ知らない、想像を超える自然が、生命が極地にはある。まだまだわからないことばかりだ。南極も北極もはるか遠い、非日常の世界。でも、この地球上にあって、今冬も南極越冬隊は南極へ向かっている。このような本という形で、そんな非日常だけれども、遠いけれども存在している世界の姿と、それを見た人の驚きや感動を間接的にだけど味わえるのが嬉しい。

 極地での音について言及している箇所もあるのですが、この本を読んでいると、静けさ、静寂を思います。極地から見れば大したことはないけれど、私の住むこの地でも、雪が降れば降らない季節とは違う静けさを感じます。氷点下の日々が続き、毎日のように吹雪いて、日照時間も短く、どんどん雪が積もって雪に閉ざされれば閉ざされるほど、静かだと感じます。夜であれば尚更。晴れていて星空が見えても、吹雪の夜だったとしても。その感覚と似ているのかなぁ、と思いながら読んでいました。いや、違うだろう。もっと違う静けさ、静寂が広がっているのだろう。

 極限の自然と、その中に生きる生命が、ただそこにある。そこで生きている。それが驚きに満ちている。写真も多く、田邊さんの言葉を代弁しているような美しさです。ペンギンやアザラシなどのおなじみの生き物から、極地だからこそ見られる風景まで。「地球の果て」の姿に心を突き動かされ、「すてき」だと感じる。ストレートに伝わってくる本です。


 ちなみに、調べたら、今日12月14日は「南極の日」。1911年ノルウェーのアムンゼン率いる一行が世界で初めて南極点に到達した日なのだそうだ。もう100年も前のことです。
by halca-kaukana057 | 2013-12-14 20:56 | 本・読書

クラシック音楽自由自在

 このブログでは「クインテット」のスコアさん役としておなじみの斎藤晴彦さん。エッセイを見つけたので読みました。

クラシック音楽自由自在
斎藤 晴彦 / 晶文社/1991

 クラシック音楽好きの斎藤さんが、聴いた音楽のこと、出演舞台のこと、音楽にまつわる思い出などを語ります。

 以前は私も、聴いたクラシック音楽作品のことをよく書いていた。書くのが楽しかった。聴いた感想、聴いていて思ったこと、イメージしたこと、思い出、作曲家や演奏者のエピソードなどなど。でも、聴けば聴くほど書けなくなってきた…ように感じている。「聴き比べ」をするほど沢山の演奏を聴いているわけでもないし、そんな音楽評論家のようなことは語れない。音楽理論にも詳しくないし、ピアノも触っていないし…。でも、CDやラジオ、テレビで聴いた作品・演奏は沢山あるし、印象に残っている、好きな演奏は沢山ある。さて、どれから書いたら、どう書いたらいいものやら…と思っているうちに、随分経っていた…こんなことばかりです。

 舞台のお仕事が忙しい中、合間や舞台の準備をしながら音楽を聴いている斎藤さん。その姿勢や、斎藤さんが思うことを読むと、まさにタイトルの「自由自在」なんだと思う。出来ればコンサートで聴くように、黙って、何もせずに音楽だけに向き合うように聴くのが一番なのかもしれない。でも、何かしながらとか、何かの合間などの時間に聴くからこそ、感じること、思うこともあると思う。

 そして、その思うことも「自由自在」。クラシック音楽を聴いて、何を思うか。それも自由なんだ。人それぞれのエピソードがあっていいし、人それぞれのイメージや思い出があっていい。ひとつの音楽でも、人の数だけその響きは異なる…凄く面白いなと思う。同じ曲でも、演奏者・指揮者・オーケストラによっても異なってくるから、また面白い。

 何気ない日常の中に、音楽があって、ちょっと思ったことがある。読んでいると、それでいいのかなと思うのです。

 「クインテット」では、五重奏団の長老的立場のチェリストのスコアさん。楽曲の豆知識を講釈したり、かと思うとそれでジョークを言ってコケさせたり、シニカルな態度をとったり。まさにスコアさんは斎藤晴彦さんなんだとも思いながら読んでいた。スコアさんが語っているような本に読めました…(1991年の本なので、2003年にスタートした「クインテット」よりも10年以上前になりますが)。
 あと、役者・舞台俳優としての斎藤さんの一面にも触れられる。斎藤さんの舞台を観たいと思いました。
by halca-kaukana057 | 2013-08-19 22:42 | 本・読書

鳥と雲と薬草袋

 梨木香歩さんの最新刊です。


鳥と雲と薬草袋
梨木香歩/新潮社/2013

 西日本新聞に、2011年11月から12年2月まで連載されたエッセイです。鹿児島出身の梨木さんにとって縁があったり、これまで旅した土地の名前に関するエッセイです。

 土地の名前がテーマですが、梨木さんの観点・視点から書かれていて、それが瑞々しく清々しい。本のタイトルに惹かれ、でも何の本だろう?とページをめくると、「タイトルのこと」と冒頭にありました。土地の名前をテーマにしたい、でももっとふさわしい書き手がいるのではないかと思いつつも、梨木さんはこう書いています。
薬草袋にごちゃごちゃ入っているメモのように、いつか行った土地の名まえ、それにまつわる物語も、鳥や雲の話に合わせて、書いていけたらと思っている。一つのテーマに合わせて、というより、その方が伸びやかで、結局はぜんたいにいいような気がするのだ。
(11ページより)

 「薬草袋」は、梨木さんが旅の鞄に入れておいている、アドリア海の小さな島で貰ったハーブのブーケが入った袋のこと。旅の最中の色々なメモも入っている。「鳥」と「雲」は、梨木さんの机の前の窓から見える木立にやってくる鳥たちと空のこと。「鳥」は、梨木さんの以前のエッセイ「渡りの足跡」でも、渡り鳥について詳しく書かれています。梨木さんの身の回りから、旅先までが繋がっているように感じさせるタイトルだなと感じました。中身も、まさにそう感じました。

 土地の名前は不思議だ、と思う。自然の特徴からつけられたもの、歴史の中の出来事に由来するもの、そこを通る人々の感情が表れているもの…。あてられた漢字が独特な読みが難しい地名は、何故こんな地名になったのだろう?と調べたくなる。音の響きが印象的な地名も。そして、その地名が生まれた背景から、昔からそこに住んでいた・旅で通っていた人々の暮らしや思いが伺えて、地名が歴史と文化を語り伝えてきたように感じる。

 それぞれの地名の一篇は短く、でも味わい深い内容です。1000年以上も前から続いている地名から、市町村合併で生まれた新しい地名、それによって消えてしまった地名まで。新しい地名も、違和感を覚えつつもじきに慣れるのだろうか、と保留している。梨木さんのやわらかい姿勢。古くから続いてきた名前を残して欲しかったけど、新しいものも全くダメとは言えない…というような。

 西日本中心のため、東日本で暮らしてきた私は、この本で出てくる土地の名前の多くを知らないし、行ったこともない。でも、読んでいると、こんな土地なのかなと想像できるし、行ったような気持ちになれる。日本には、素敵な土地の名前が、名前の通りの素敵な土地が沢山あるのだな、と。知らない、行ったことがないからこそ、余計そう感じた。

 「岬」の言葉の意味と、九州で「岬」の代わりに使われる「鼻」の意味の対比が興味深かった。道の果て・終わりか、道の始まりか。島国だからこそ、そんな意味合いの違いが生まれるのだなと思った。

 本の装丁、イラストもシンプルできれい。一気に読んでしまいましたが、「あとがき」にあるように、「連載時と同じように一日一篇、と読んでくだされば、五十日間は持つ」…2回目はそうやって読みたいです。
 そして、同じく「あとがき」から、旅をしたことのある土地の名がふとした時に「薬効」となる…。旅をした土地の名前が、新聞やニュース、テレビ、小説などに出てくると釘付けになってしまうし、その土地で印象深い出来事があればそれを思い出すたびにまた行きたいなと思う。行ったことのない土地でも、こんな風に書かれていたら、「薬効」を持つのかもしれない。

 旅に出たら、その土地の名前を調べてみよう。自分の今いる場所・身の回りと、旅先が繋がるかもしれない。

・過去関連記事:渡りの足跡

渡りの足跡 (新潮文庫)

梨木 香歩 / 新潮社


 単行本に加筆した文庫版も出ています。
by halca-kaukana057 | 2013-07-15 22:05 | 本・読書
 今日は春分の日。国民の休日の意味としては、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日なのだそうだ。

 春分の日は、天文学上の呼び名では「春分日」。地球が、「春分点」を通過する日。地球は太陽の周りを公転していますが、ここで仮に地球を中心にして太陽がまわっていると考えます(あくまで仮にです)。太陽の天球上の通り道のことを「黄道」と呼びます。一方、地球の赤道を天球上に延長したものを「天の赤道」と呼びます。黄道は天の赤道に対して、23.5度傾いています。この黄道と天の赤道が交わった2つの点を「春分点」「秋分点」と呼びます。「春分点」は太陽が赤道の南から北へ向かって横切る点のほう。赤経・黄経は共に0度。はじまりの点。ちなみに、毎年少しずつ西に移動していて、今は黄道上ではうお座に位置しています。

◇参照:国立天文台:質問3-1)何年後かの春分の日・秋分の日はわかるの?
 暦は、国立天文台の大事な、私たちにとって一番身近なお仕事です。

 …という天文学上の暦の話をしてしまいましたが、春分・夏至・秋分・冬至の日は、特に暦を意識します。ということでこの本を読みました。

ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記
おーなり由子/新潮社/2006

 366日、一日1ページに、短い文とイラストで描かれた歳時記。暦と季節と自然の移り変わり、天候や気温、その時期の植物や生き物、野菜、料理、「何の日」とおーなりさんの思い出…毎日やさしくあたたかい言葉と絵で語られます。

 読んでいて、毎日、同じ日は二度とないのだなと実感する。地球は太陽の周りをまわり続け、季節は、身の回りの自然や風景、天候・気温は僅かずつ変化する。二十四節気があり、七十二候もある。毎日何かの行事があり、記念日で、誰かの誕生日で、御命日で、思い出のある日。旬のものも季節とともにめぐる。そんな毎日が愛おしくなる本です。何気なく過ごしている毎日は、こんなにも豊かな季節感に溢れていて、毎日何かが起こっている。

 この本では、おーなりさんの住む関西がベースになってはいますが、他の地方のことも書いてある。日本は狭いようで広く、季節・気候に幅があると実感する。実際、私の地域は今日は冷たい雨の降る日で、今夜は暴風雪。一方関東ではもう桜が咲いていて、あたたかい。まだこちらは積もりに積もった雪がまだまだ残っていて、コートを着ないと寒い、モノクロの風景なのに…。でも、一足はやく雪が消えた地面には、緑の芽が。春は近づいているのだなぁと思う。

 毎日その日を開くのもいいし、最初から読むのもいい。目に付いたページを読んでいくのもいい。季節のお料理レシピもあって、作りたくなります。今の季節は、「なのはなサンドイッチ」。菜の花のことではないんです。春を待ちながら食べたいなと思いました。宇宙天文好きとしては、季節の星空・星座の話も出てくるのが嬉しい。しかも、おーなりさんは結構天文にお詳しいのかな?と思うほど(ライカ犬の乗ったのは「スプートニク2号」ですが…ここは残念)。

 歳時記は、歴史でもあると感じました。暦も、「天地明察」の渋川春海(安井算哲)をはじめとして、様々な人々が日本の季節に合う暦を作ってきた。その季節ごとの行事や風習も、古来の人々がつくってきたもの。つくってきたものが積み重なって、現代でも行われている。古来の人がどんな思いで、どんな願いをこめてこの行事や風習をつくり、続けてきたのだろう。そして、歴史に刻まれたひとつひとつの記念日の出来事と意味と重み。そんなことを思いながら読んでいたら、いつの間にか目頭が熱くなっていました。まさかこの本で涙腺が緩むとは思わなかった…。

 こんな歳時記を自分でも書いてみたいなと思いました。私の地域の、私の歳時記。おーなりさんが見た毎日の歳時記とは違う、自分の歳時記。歳時記は生きている記録とも感じました。しかし、短い文でも毎日の暦の知識・教養がないとこれは書けないなと思います。おーなりさん、凄い。簡単に書けるものではない。でも、いいなぁ。

 巻末に、天文学での暦や二十四節気の解説もあり、本格的です。今、旧暦や七十二候に関する本が色々と出回っていますが、いわゆる「スローライフ」視点でのものが多く、暦や七十二候がどうやって出来たのかについても、つくった渋川春海らの名前も書いていないのが残念だと思っていたのです。これはいい本だと思いました。

 開くのが楽しみな本です。
by halca-kaukana057 | 2013-03-20 22:50 | 本・読書

北への扉 ヘルシンキ

 久々にフィンランド関連の本を読みました。ずっと読みたかった本です。


北への扉 ヘルシンキ
写真:伊奈英次、文:小原誠之、構成:萩原誠/ プチグラパブリッシング/2011


 フィンランド航空・フィンエアーの日本語版機内誌「KIITOS」(キートス:フィンランド語で”ありがとう”の意)に掲載された記事を再構成してまとめた本。フィンランドの首都・ヘルシンキを拠点に、フィンランドの各地、足を伸ばしてエストニア、ラトヴィア、ノルウェーの町や自然・風景、人々に出会った旅を、写真と文章で綴ります。

 この本、結構厚くて重い。最初手にして驚いた。でも、中身を開いて、この厚さと重さの分だけある、と感じた。写真が多く、どれもきれい。現地の空気や光の加減が伝わってくるような写真ばかり。そして文章も、読んでいるとだんだん心が清々しくなる。
 フィンランドをはじめとする国々の澄んだ空気が漂っている。森の緑、可憐な花々、穏やかな輝く湖面、爽やかな風。冬のラップランドの雪の白、凍りついた空気、夜のオーロラ。ヘルシンキなどの町もきれいだ。マリメッコなどのデザインプロダクトは、鮮やかな原色のものもあるのに、「派手」と感じない。「鮮やか」、心躍るような「カラフル」と言えばいいのだろうか。町に溶け込んでいて、浮いていない。北欧の鮮やかなテキスタイルやデザインのそんな特徴に、いつも不思議だなと思いつつも心惹かれている。


 旅の始まりは、ハメーンリナ。湖水クルーズ「シルヴァーライン」はハメーンリナとタンペレを結ぶ、8時間の船旅。これはいいなと思いつつ、この最初からやられてしまった。ハメーンリナと言えば、作曲家・シベリウスの生まれ育った町。シベリウスはその後ヘルシンキの音楽院で音楽を学び、さらにヘルシンキ郊外の小さなひっそりとした町・ヤルヴェンパーで生涯を終えるまで住んだ。シベリウスが好きで、フィンランドに行ったらまず行くのはこのヤルヴェンパーのシベリウスの家「アイノラ」(シベリウスの奥さん・アイノさんの家という意味)と決めている。ここにはシベリウスがアイノ夫人と眠っているお墓もある。でも、ハメーンリナも是非とも訪れたい場所。生家も見学できる。この「シルヴァーライン」での船旅の風景を観て、筆者はシベリウスの楽曲が頭の中に流れていた、という。弦のかすかなトレモロ。ヴァイオリン協奏曲や、交響曲の旋律の一部。文章を読みながら、写真を見ていると、確かに私もシベリウスの楽曲が頭の中に流れてくる。フィンランド=シベリウス、ではないかもしれないけど、その要素はあると私は思っている。私がフィンランドに行ったら、頭の中にはどんな音楽が流れるだろう。前から思っていたが、この本を読んでますますそう思った。フィンランドのシベリウス以外の作曲家…メリカントやカスキなども出てくるかもしれない。

 ヌークシオ国立公園やセウラサーリ野外博物館で自然・森に触れるのもいい。旅で疲れているだろうに森の中を歩くなんて…と私も思った。が、地元でも疲れている時でも田舎道を歩いていると気分が落ち着く、気疲れが程よい身体の疲れに変わっている時がある。せっかく森の国フィンランドまで来て、森を歩かないのもさみしい。私も森を歩きたい。一方で、ヘルシンキやラウマ旧市街の町で歴史に触れるのもいい。ラウマの伝統のレース編み・ラウマレースの精巧な美しさ。人々とのちょっとした出会いや交わす言葉もいい。

 エストニアのタリン、ラトヴィアのリーガもまた素敵な町。ノルウェーでは、ベルゲンへ。ベルゲンで日本の柴犬を散歩させていたご夫婦との話に、読んでいる顔がほころぶ。そしてベルゲンは、シベリウスと同じく北欧を代表する作曲家・グリーグの生まれ住んだ町。フィンランドでヤルヴェンパー・アイノラ、ハメーンリナを訪れたら、是非ノルウェーではベルゲンを訪れたい。グリーグが生涯にわたって書き続けたピアノ曲集「抒情小曲集」に収められている作品にもその名前が出てくる「トロールハウゲン(トロルドハウゲン)」。グリーグが住んだ家がある場所。このあたりは読んでいてたまりませんでした。

 そしてフィンランドに戻って、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を辿る旅へ。「フィンランドのくらしとデザイン展」で展示されていた、アクセリ・ガッレン=カッレラの「カレワラ」挿絵図案や、「アイノ神話」の絵を思い出す(フィンランド展で展示されていたのは、個人蔵の少し違うもの)。フィンランドの人々は、「カレワラ」の物語に小さい頃から親しんでいる。アニメ「牧場の少女カトリ」でカトリが一生懸命「カレワラ」を読んでいたのも思い出す。国立アテネウム美術館にあの「アイノ神話」の絵が展示してあるのだが、その絵を観ていた女の子がまさにカトリのよう。小学校入学前にして既に全篇を読み通し(!! 日本語版を大人が読むのも大変だと思うのに…凄い!)、「カレワラ」についてもっと知りたいとおばあさんと一緒に美術館・博物館めぐりをしているのだそうだ。印象的な箇所です。
 
 一方、自然から「カレワラ」の風景に迫る、コリ・カレリア地方の旅。「カレワラ」の物語に出てきそうな風景。今も残っている…残っていて欲しいと思う。

 何度でも読みたい本で、何度も読んでしまっている。冒頭でも書いたが写真もきれいなので、写真を眺めるだけでも楽しい。フィンランドの魅力が、澄んだ空気がそのまま伝わってくる本。なかなかない、いい本です。
by halca-kaukana057 | 2013-02-20 23:45 | 本・読書
 梨木香歩さんの最新作です。タイトルの通り、エストニア紀行エッセイです。でも、ただ「エッセイ」と言い切れないのが梨木さんの著作。

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木香歩/新潮社/2012

 2008年8月から9月、梨木さんはエストニアを訪れる。歴史のある街や、地方の森とそこに生きる人々、そしてコウノトリを探しに(梨木さんの鳥・バードウォッチングに関するエッセイは「渡りの足跡」に詳しく書かれています)。

 エストニア、と言えば、色々と連想する。まず、旧ソ連の支配下にあったバルト三国のひとつ(一番北がエストニア)。フィンランド好きとして、フィンランドのお隣の国。フィンランド語とエストニア語は似ていて、国歌のメロディーも何故か同じ。フィンランドからフェリーで約3時間という近さもあって、フィンランドとはつながりの深い国。IT大国。その一方で首都タリンの町並みは世界遺産にも登録されている。把瑠都関の故郷。クラシック音楽好きなら、指揮者のネーメ・ヤルヴィ、その長男が同じく指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(現在はアメリカ国籍だと、さっき調べて初めて知った)、次男で同じく指揮者のクリスチャン・ヤルヴィ、妹のマーリカ・ヤルヴィもフルート奏者、とヤルヴィ一家もエストニア出身と思い出す人も多いはず。
 でも、エストニアがどんな国なのか、私はよく知らない。梨木さんの言葉でどんな風に書かれているのか、読むのが楽しみだった。でも、何故エストニアなのだろう、と思っていた。

 まず表紙と、中ごろにある旅の写真が美しい。葦と海、町並みや古い建物、自然や風景、旅で出会った人たち。上記した連想したものとは異なる、私の知らないエストニア。梨木さんの旅の過程も、私の知らないエストニアばかり。でも、もし私がエストニアを旅して、その記録を書いたとしてもこの本のようにはならない。梨木さんの目を通して、梨木さんが感じたエストニアの姿だから。物語のように語られる。

 上記したエストニアのイメージの中に、IT国家、とある。タリンの古い街並み、国も小さい一方で、ITに関しては先進国。色々と進んだところがあるのだろうなと思っていた。が、タリンを離れ、南の地方や島へ行くと、自然に溢れている。まさに、ヨーロッパの田舎(いい意味で)。そこに暮らす人々も、古くから伝わる地域の文化・民俗を大切にし、自然の中で生きている。そんな地方で出てくる料理が美味しそうだと読んでいて思った。美味しいパンやきのこ料理が食べたくなる。地方の小高い山の上にある小さなレストランを訪れるのだが、そのシェフやレストランの雰囲気、料理の内容、食材についてを読んでいると、小説「雪と珊瑚と」の珊瑚が営む惣菜カフェを思い出した。もしかすると、このレストランがモデルのひとつになっているのかもしれない。

 梨木さんが何故エストニアを選んだのか。その理由はコウノトリの渡りを見たいというものあった。そのコウノトリだが、自然はめまぐるしく移り変わり、渡り鳥はその動きにとても敏感なのだと感じた。コウノトリだけでなく、様々な鳥も登場する。そして、自然の中で生き物が生きるということ。その中での、人間という存在はどんな存在なのか。言葉を失い、黙り込んでしまう。ただの破壊者に過ぎないのだろうか…。人間が手を加えられないところ…例えば、国家間の緊張が続いている国境付近などは、逆に手付かずの自然と生態系が保たれているという。皮肉なものだ。そして、梨木さんがエストニアを旅したのは2008年だが、2011年の日本…震災後の日本に繋がる部分もある。この点に関しては、様々なことが複雑に絡み合っていて、用意に言葉に出来ない、私は書けない。だが、「自然」という視点だけで考えると…やはり人間はただの破壊者なのだろうか…。
 エストニアは、自然の美しさと、その陰にあるものを感じられる場所でもある。

 シリアスな部分もあるが、滑稽に読める部分もある。古い建物のホテルが「ホーンテッドマンション」そのもので、梨木さんの泊まった部屋には不思議な少女の絵が…。でも、この絵の少女とも「親しく」なろうとする梨木さんの柔軟さに凄い、とも感じる。キノコ採り名人のおばあさん、蛭で治療をする、というおじいさん。朗々と歌い、マウンテンバイクに颯爽と乗るおばあさん。梨木さんを困惑させた少年たちのカヌーガイド。こんな場面でも、相手を許容しようとする、もしくは自分の意思を伝える感じが梨木さんだなぁと思う。
 あと、都会だけ行くと決めている旅行以外には、必ず長靴を持ってゆくという梨木さん。確かに便利そうだ。それに、どうせ観るなら都会だけでなく、自然の中も歩きたい。早起きして、森の中を歩く部分も大好きだ。

 コウノトリの視点から、エストニアの自然が、地球規模の自然に繋がっているという考え方もいいなと思った。エストニア第二の国歌「我が祖国は我が愛」も。タリン合唱祭・「歌の祭典」で必ず歌われる歌。旧ソ連からの独立を支えた歌でもある。どんな歌なのか調べてみたら、こんな歌だった。
エストニア第25回歌の祭典 XXV Laulupidu 2009 "Mu isamaa on minu arm"
 こんなたくさんの人が一緒に歌っていると思うと、凄いと思う。

 歌をじっくり聴きたいなら、CDもあります。
バルト三国の合唱音楽選集 Vol.1 エストニア合唱曲集(1)混声
 北欧諸国は合唱大国として有名だが、エストニアも合唱は盛んな模様。

 静かで、熱いものを感じられる。こんな旅もいいな。

【過去関連記事】
・渡り鳥に関するエッセイ:渡りの足跡
・山の上のレストランがモデルのひとつなのかもという小説:雪と珊瑚と
by halca-kaukana057 | 2013-01-20 23:43 | 本・読書

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