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椿宿の辺りに

 梨木香歩さんの新作が久しぶりに出ました。ようやく読めました。


椿宿の辺りに
梨木香歩/朝日新聞出版/2019


 佐田山幸彦(さた・やまさちひこ 通称:山彦)は化粧品会社に勤めている。まだ30代だが、肩から腕にかけて強い痛みがあり、ペインクリニックにも通っているが全くよくならない。山彦の父の弟夫婦の娘・いとこの名前は海幸比子(うみさちひこ 通称:海子)といい、同じように身体の痛みで悩んでいた。事の始まりは、実家の店子の鮫島氏から手紙が届いたことだった。その家は山彦の曾祖父の代から佐田家の者は住んでいない。鮫島氏も父の死と仕事の都合で引っ越し、賃貸契約を打ち切りたいという手紙だった。その手紙の名前に驚いた山彦は契約書を確認する。その契約していた長男の名前は鮫島宙幸彦(宙彦)だった。山幸彦、海幸比子の名前は祖父が命名した。鮫島家と佐田家には何か繋がりがあるのかもしれない。それを海子に話した後、実家に帰ると、祖母の早百合の先がもう長くないことを知る。そして、死んだ祖父の話を聞くことになる…。


 あらすじを書くのに困る作品です。物語がどんどん深いところまで進んで、読んでいる側はそれに巻き込まれるような形ではまっていく。物語の中で不思議な出来事が起こっても、もうそのまま受け止めるしかない。これぞ梨木作品の魅力です。
 そして、読んでいてあれ?と思う箇所がいくつも出てくる。前に読んだこと、ある…。「f植物園の巣穴」の続編でした。

 「f植物園の巣穴」でも、「痛み」は物語のきっかけであり、重要なもの。「椿宿の辺りに」でも、やはり「痛み」が重要な鍵になってきます。山彦や海子の痛みは何かに繋がっている。それは何なのかを探りに、佐田家が長いこと離れていた実家、椿宿と呼ばれていた場所に向かう。この椿宿に向かうまで、不思議なことが次々と起こる。その中心となるのが、海子が行っていた仮縫鍼灸院と、その鍼灸院の先生の妹の"亀シ"。この2人(プラス何人か)については、最後まで読んで「そうだったのか!!」と驚きました。ちょっと許せない。

 「f植物園の巣穴」の感想で、私は「境界」について書いた。「f植物園の巣穴」では様々な「境界」が出てくる。この「椿宿の辺りに」では、「f植物園~」で作られたある「境界」が大きな鍵となる。
 「境界」は、「責任」とも言い換えられる場合があると思う。ここからは私の責任、ここから先は私の責任ではない。そうはっきり「境界」を設けないと大変なことになってしまう。「f植物園~」で"私"が設けた「境界」。それが「椿宿~」で山彦たちが背負うことになる。それは仕方がないのか、山彦や海子、そして宙彦にとっては「誰にも共有されない不安」だったことを考えると"私"の「責任」は何なのかと問い詰めたくなる。「家」という「社会」には、何かしらの「誰にも共有されない不安」があると思う。私にもあるし、友達からそんな悩みを打ち明けられたことはある。新聞や雑誌などの「人生相談」のコーナーにはそんな「家」の悩みが寄せられる。その道の専門家や人生経験豊かな著名人がその悩みに答えるが、それで本人は解決したと思っているのだろうかと思うものもある。「誰にも共有されない不安」を理解できる人は、山彦と海彦のような関係にある者だけなのかもしれない。寂しくも感じる。確かに寂しい。「誰にも共有されない」のだから。海彦の孤独な闘いのような、その「責任」をどうにかしようという奮闘は、読んでいて辛かった。海彦は強い。だからこそその奮闘と孤独は報われて欲しいと願うばかりだった。

 そしてもうひとつの鍵となる「痛み」。山彦や海子が苦しんでいる身体の痛みだけではない。椿宿の実家の辺りにも「痛み」がある。「痛み」を感じるのは人間だけではないと思う。読んでいて、近年の気候変動による災害を思い浮かべた。強引に鎮めようとした結果、新たな「痛み」が出てくることもある。「痛み」を消すために本当にしなければならないことは何なのか。
 また、「家」が抱える「痛み」もある。「f植物園~」でも触れられていたが、椿宿の家の過去の「痛み」。「f植物園~」ではそれほど深い「痛み」のように感じなかったが、「椿宿~」では激痛に感じた。ただ、「椿宿~」では山彦だけでなく、海彦の家族や珠子さんもいる。椿宿の辺りの土地の「痛み」も含めて、この時を待って、「痛み」を鎮めることができたのかもしれない。

 山彦はこう語っている。
 私は長い間、この痛みに苦しめられている間は、自分は何もできない、この痛みが終わった時点で、自分の本当の人生が始まり、有意義なことができるのだと思っていましたが、実は痛みに耐えている、そのときこそが、人生そのものだったと思うようになりました。痛みとは生きる手ごたえそのもの、人生そのものに、向かい合っていたのだと。(299ページ)
 私も同じ事を思うことがある。今悩んでいることが解決すれば、私の人生はもっとよくなる、生きやすくなる。やりたいことも存分にできる。それまでは、悩んでいることを解決するために、耐えるしかない。我慢するしかない。動けなくても仕方がない。そう思っていた。でも違う。「痛み」、悩みや問題を抱えていたとしても、我慢だけしなくてもいい。「痛み」を感じながら、「痛み」をどうにかしようとしたり、時には息抜きに寄り道をしたり、回り道をしたり。「痛み」があってもやりたいことがあるならやればいい。そう思うようになった。「痛み」がなくなるまで待っているなんて、それは自分の人生に勝手に存在しない「境界」を作っている。私が今できることを、やるべきことを、そしてやりたいことをやっていけばいいだけだ。それも、私の「責任」なのだから。

 山幸彦、海幸彦の神話も興味深く読みました。この神話も、「誰にも共有されない」、佐田の「家」の問題を暗示している。

 できれば、「f植物園の巣穴」から読むことをおすすめしますが、私は「f植物園~」はなかなか読了できなかった。「椿宿~」から読んで、謎解きとして「f植物園~」を読むと話の流れが見えるかも知れない。私も「f植物園~」を再読しています。本当に不思議な物語だよなぁ…。

・過去記事:f植物園の巣穴



by halca-kaukana057 | 2020-01-10 22:20 | 本・読書
 以前読んだ「ゼロからトースターを作ってみた結果」(トーマス・トウェイツ)の中に出てきた小説。正確にはこの本ではなくシリーズの「ほとんど無害」。まずはシリーズ第1作から。
・過去記事:ゼロからトースターを作ってみた結果


銀河ヒッチハイク・ガイド
ダグラス・アダムズ:著、安原和見:訳/河出書房新社、河出文庫/2005

 イギリス人のアーサー・デントは地元のラジオ局に勤めるごく普通の地球人。そのアーサーの家の前に、とても大きなブルドーザーがやってきた。アーサーの家を壊すという。アーサーには友人がいた。フォード・プリーフェクトという男だが、実はベテルギウスの近くの小さな惑星出身の異星人だった。アーサーの家を壊そうとするブルドーザーとのやりとりに巻き込まれたフォードは、飲まないとやってられないとアーサーをパブへ連れて行く。実際、飲まないとやってられない状況が近づいていた。間もなく地球には、ヴォゴン土木建設船団がやって来る。地球を取り壊し、そこに超空間高速道路を建造する。彼らは地球を破壊してしまった。アーサーは地球人でただひとりの生き残りとなり、フォードと一緒に宇宙でヒッチハイクをし旅をすることになった。フォードは「銀河ヒッチハイク・ガイド」という本を持っていた…。



 SFの傑作とよく聞く本だけど、どんな物語なんだろうと思ったら…。
 元々はBBCのラジオドラマ。それを小説にしたのがこの作品です。アーサーとフォードは様々な宇宙船をヒッチハイクし、宇宙を旅し続ける。その途中で様々な人に会い、別の星に行き、地球に何が起こったのか、地球とは何だったのかを知ることになる。
 だが、その旅路がぶっ飛んでいる。アーサーとフォードには次々とピンチが訪れる。2人はそのピンチを上手い具合に乗り越える。本当にぶっ飛んでいる発想で、上手い具合に。このイマジネーションはすごいなと思う。元々はラジオドラマなので、どのシーンも映像をイメージしやすい。実際に映画化されているが、映画だったらこうなるのかな、と文章を読んですぐイメージできる。

 そして、この本はブラックでシュールなイギリスジョーク満載。昔、NHKで「宇宙船レッド・ドワーフ号」というイギリスのSFドラマを放送していた。その雰囲気。「レッド・ドワーフ号」もシュールなくだらない(褒めてますw)ジョークが満載で、大好きで、いつも笑って観ていた。それを思い出した。(ちなみに、「レッド・ドワーフ号」も小説化されていて、訳者は同じく安原和見さん)
 イギリス人はどうしてこんなシュールなジョークが好きなんだろう…。地球が滅亡しても、異星人にもイギリスジョークは通じると思っているのだろうか…(褒めてますw)。独特のジョークであることに気づかないと「何これ?」と思ってしまう。私も全部わかったわけではないけど、何かおかしい、何か変だ、というのはわかった。アーサーの立場で考えると、突然地球が消滅して、宇宙をヒッチハイクすることになり、見るもの出会うものは初めてのものばかり…これまでの地球での常識がひっくり返されてしまった状況で、自己を保つ、「パニクるな」と言われたら、こんなシュールなジョークでも言わないとやってられないのかなと思う(真面目に考えてみた)。

 宇宙船やコンピュータはまさにSFなのだが、それは高度な文明なのか、でたらめなのか…。アーサーの出会う人やもの、星はユニーク。そして哲学的でもある。地球とは何だったのか。まさかの展開に驚く。お気に入りはネガティヴ過ぎるロボット・マーヴィン。何故こんな性格にした。何故こんなプログラミングにしたと問い詰めたいが、こんな奴もいてこその宇宙珍道中なのかなと思う。

 この作品もシリーズものなので、続編も読みたい。ディープな作品に足を突っ込んでしまった気がするんだが…。



by halca-kaukana057 | 2019-12-16 21:52 | 本・読書
 アマゾンを見ていたら、この本のシリーズ第3作をおすすめされた。シリーズ第1作は?とあらすじを読んでみたら面白そう。早速第1作を読みました。アマゾンのおすすめも時にはいいものを薦めてくる。


ヴァイオリン職人の探求と推理
ポール・アダム:著、青木悦子:訳/東京創元社、創元推理文庫/2014


 イタリア、クレモナ。初老のジャンニはヴァイオリン職人。ジャンニの幼なじみのヴァイオリン職人のトマソ・ライナルディ、神父のアリーギ、クレモナ警察の刑事のアントニオ・グァスタフェステの4人で弦楽四重奏を結成していた。いつもの練習の後、トマソの妻・クラーラからトマソがまだ帰ってきていないと電話がかかってくる。トマソのことをとても心配しているクラーラ。ジャンニとグァスタフェステはトマソを探しに行く。トマソの工房に行くと、中でトマソが殺されていた。弦楽四重奏の練習の時、何かを探していると言っていたトマソ。クラーラの話では、「救世主(メシア)の姉妹」という幻のヴァイオリンを探していると言っていた。それを探しにイギリスまで行ったという。ジャンニはヴァイオリンの専門家としてグァスタフェステの捜査をサポートすることになる。トマソが行った場所、会った人に会いに行く2人。2人はヴェネツィアのヴァイオリンのコレクター、エンリーコ・フォルラーニにも会うが、彼も自宅で殺され、コレクションのひとつのマッジーニがなくなっていた。ジャンニとグァスタフェステはヴァイオリンの歴史を紐解きながら、トマソが探していたヴァイオリンと犯人を捜す…。


 私はクラシック音楽は好きだが、ヴァイオリンについてはそんなに詳しくない。私はヴァイオリンを弾いたことはないし、触ったこともない。ストラディヴァリウス、グァルネリ、アマティぐらいしか知らないし、その何年に作られた云々…と聞いてもよくわからない。ストラディヴァリウスやグァルネリのどこがどう違っていて、音色にどんな特徴があるのかは知らない。よくヴァイオリンのソリストが使っている楽器についてプロフィールに書かれているが、それを読んでも由緒あるすごい楽器なんだろうな程度にしか思っていない。どうすごいのかはわからない。そんなヴァイオリンに疎い私も、ジャンニの語る偉大なヴァイオリン職人たちのこと、それぞれの特徴と違い、たどってきた歴史を読んで興味を持った。ヴァイオリン奏者たちが名器に憧れ、名器とともに名演が生まれる理由が少しわかったような気がする。

 偉大なヴァイオリン職人たちは、数々の名器を創った。しかし、それらが全て記録され、現代に残っている訳ではない。失われてしまったものもあるし、ちゃんと記録を取っておかなかったせいで行方不明のものもある。貴重なものなのだからしっかり管理しろと言いたいが、長い年月と様々な人に渡っていった途中であやふやになるのは仕方ないのか。更に、創った職人や制作年がわかっていても、それが本物かどうか確かではないことがある。この作品では贋作についても触れている。そのヴァイオリンが本当に本物であるか証明するのは確実ではないことに驚いた。

 また、名器と呼ばれるヴァイオリンも、実際に演奏するには手を加えないとならないことにも驚いた。ヴァイオリン職人はヴァイオリンを創ったり、修理するだけではない。それぞれの名器の個性を知り尽くしていて、そのよさをより発揮するためにはどうしたらいいかを知っている。そのための作業ができる。ヴァイオリン職人は過去と現在をつないで、楽器を活かすことができる。並大抵の仕事ではないのだなと思った。

 トマソの足取りをたどっていく途中で、ジャンニはあるヴァイオリンと出会う。ジャンニのある過去。ヴァイオリンをめぐる業界は一筋縄ではいかない。現代も過去もヴァイオリンのディーラー、コレクターたちは曲者ばかり。ディーラーだけでなく、ヴァイオリンに関わる人たちは個性的な人が多い。それはいい意味の場合もあるし、悪い意味の場合もある。トマソがイギリスに行って、あるものを探すために訪ねたミセス・コフーンはいいキャラしています。

 ジャンニはとても優しくて誠実な紳士。ジャンニよりもずっと若いグァスタフェステもしっかりした刑事。ジャンニはヴァイオリンの専門家でもあるが、人脈がとても広い。仕事だけの付き合いだったとしても、ジャンニは誠実。登場人物は多いですが、その分深みもあって面白い。

 とにかくヴァイオリンにまつわる歴史がとても重く、面白い。これからヴァイオリン作品を聴く時は、もっとヴァイオリンの楽器そのものにも注目して聴かねばなと思う。使っているヴァイオリンの製作者がわかるなら、それにも注目したい。

 昔も今も人々を惑わすヴァイオリンの歴史ある名器。ヴァイオリンそのものが謎が多いのだから、それをミステリーにしたら面白い。「ヴァイオリン職人」シリーズ、続きも楽しみです。


by halca-kaukana057 | 2019-12-01 23:04 | 本・読書

起終点駅(ターミナル)

 桜木紫乃さんの作品は初めて読みます。表題作の「起終点駅(ターミナル)」が映画化され、映画は観ていないのですが主題歌のMY LITTLE LOVER「ターミナル」がとても好きで、まずは原作を読んでみようと思ったのが読むきっかけ。ちなみにマイラバはデビュー当時から大好きです。


起終点駅(ターミナル)
桜木紫乃/小学館、小学館文庫/2015(単行本は2012)

 東京のデパートの化粧品売り場で働く真理子は、竹原基樹の納骨式のために函館にやって来た。1ヶ月前に納骨式に出席して欲しいと手紙を受け取った。式はロシア正教会で、参列者は真理子の他にいなかった。真理子と竹原は大手化粧品会社に勤めていて、竹原は幹部を約束された男だった。竹原は複数の女性と関係を持っていて、真理子もその一人だった。だが、急に母親の介護をすると仕事を辞め函館に行ってしまった。真理子はその納骨式の立会人で神父の角田吾朗に、函館に来てから死ぬまでの竹原のことを聞く…。
(「かたちないもの」)

 「かたちないもの」、「海鳥の行方」、「起終点駅(ターミナル)」、「スクラップ・ロード」、「たたかいにやぶれて咲けよ」、「潮風の家」、6編の短編集です。どれも北海道の町が舞台になっていて、もう一つ共通するのが登場人物は孤独、無縁の状態であること。暗く寂しい作品ばかりで、読んだ後やるせない気持ちになった。特に「スクラップ・ロード」は救いがない…。

 私はひとりでいるのは好きだ。だが、孤独にはなりたくないと思う。
 「無縁」であれば、家族がいない、もしくは連絡を取っていない、ほぼ縁が切れた状態。身寄りがない。
 「孤独」はどういう状態だろうなと考える。友人や恋人、心を許せる人がいない。自分のことを誰にも話せない、話し合える相手がいない。頼る人が誰もいない。ひとりぼっちでいることを寂しく、苦しく、辛く、望みがないと思っている。こう書いてみたが、とすると、この作品に出てくる登場人物たちは全く「孤独」ではないとも思える。誰かがそばにいて、少しの間だけでも一緒にいてくれる。その人が何者なのか、誰もよく知らなくても。過去に何があったとしても。ただ一緒にいるのではなくて、お互い孤独で、それをわかっていて距離を保っている。傷をなめ合うようなことはしない。目の前にいるその人として向き合う。どこまでも暗く寂しい物語だけれども、その個人を尊重するような関係があるのは救いだ。

 「海鳥の行方」「たたかいにやぶれて咲けよ」の主人公、新人新聞記者の里和がいい。男社会の新聞社で、新人で女性の里和は上司の圧力に耐え記事を書き続ける。里和には恋人がいたが、卒業後離れて暮らし、それぞれの仕事が過酷になるにつれて連絡も減っていった。恋人の苦しい状況に心を痛めつつも、記事を書き続ける。記者の郷和と、ひとりの人間としての里和。この違いに惹かれる。
 「潮風の家」も寂寥感に満ちた作品だが、人間の奥深さが伝わってくる。千鶴子とたみ子の2人は孤独で生きづらいはずだが、そんな素振りも見せない。「孤独」はその人自身が決めるのだろうか、と思う。

by halca-kaukana057 | 2019-11-19 22:52 | 本・読書
 「古典部」シリーズも4作目。今度は短編集です。


遠まわりする雛
米澤穂信/角川書店、角川文庫/2010(単行本は2007)


 神山高校に入学して1ヶ月。奉太郎は居残りで家に忘れてきた宿題をもう一度書いていた。一緒にいた里志は、学校の怪談話を始める。放課後、音楽室に行った女子生徒が、誰もいない教室からピアノ演奏を聴いたという話。これは実際にあったことを、里志が聞きつけてきたという。宿題に苦戦している奉太郎のところへ、えるもやって来る。奉太郎は、えるよりも先に他の学校の怪談話を始めてしまう…。

 「やるべきことなら手短に」「大罪を犯す」「正体見たり」「心あたりのある者は」「あきましておめでとう」「手作りチョコレート事件」「遠まわりする雛」の全7作です。話は時系列で並んでいて、「やるべきことなら~」は入学1ヶ月後、「遠まわりする雛」は4月、春休み中の話です。

 今までの3作は、アニメを観る前に読んでしまっていました。なので、アニメとは関係なく純粋に物語を追って楽しんだり、このシーンはアニメではどう描かれるのだろうとアニメが楽しみになったり、そんなことを考えながら読んでいました。しかし、この第4作は「遠まわりする雛」以外はアニメを先に観てしまっていました。「やるべきことなら~」は、アニメ1話の後半(Bパート)に収められています。なので、アニメを観た時はこの話は原作にあったっけ?とわからず。後からこの短編に収録されていることを知りました。

 1年かけての短編なので、古典部の4人の関係も、奉太郎の「省エネ主義」の変化も楽しめます。古典部に入部し、千反田えるという不思議な女子に出会い、えるに振り回されつつもちょっとした出来事の不思議な箇所や、えるの過去と古典部の過去に向き合うことになった奉太郎。「やるべきことなら~」の最後、奉太郎がえるに影響を受けることに対して取ったある態度。それが、「遠まわりする雛」では、その態度を自分で動かそうとしている。第1作「氷菓」で、奉太郎の青春は灰色と里志と話していたが、薔薇色とまではいかなくても、桜色になったのかもしれない(バラも桜も好きですが)。むしろ奉太郎はそのぐらいでいいと思う。しかし、「遠まわりする雛」の最後、奉太郎が言いかけた言葉。あれは…実質…ですよね。アニメでは「!!?」となりました。でも一瞬。

 古典部の4人は、優しいと思う。「やるべきことなら~」の奉太郎、「あきまして~」のえる、「手作りチョコレート~」の里志はエゴイズムのようで、相手を傷つけたくなくて自分を守っている。えるは優しさをストレートに出す。「大罪を犯す」の事の発端、「正体見たり」の謎は解けても納得できなかったこと。謎や犯人がわかっても責めることはしない(「正体見たり」は少し違うけど)。背景を理解しているから。「遠まわりする雛」の最後、豪農の一人娘としての覚悟と決心も優しさが感じられる。

 「チョコレート事件」では、普段は竹を割ったような発言(特に里志に対して)の摩耶花も、わかっているから責めない。一方の里志の摩耶花への想い、自分に対する視点に、わかるような気持ちになった。摩耶花はずっと里志に想いを寄せている。中学3年のバレンタインも、里志にチョコレートをプレゼントしようとするも、里志にはぐらかされる。来年こそは手作りチョコレートを渡すから、憶えてなさい!と言う摩耶花だが…。その1年後のバレンタイン。里志は摩耶花の想いを知りながらもずっとはぐらかしてきた。何故だろうと思っていた。摩耶花のことが嫌いなわけじゃない。恋愛関係ではなく、友達でいたいからだろうか?と思ったら…。何か、誰かを「好き」になるということの意味。いつも飄々としている里志がこんなことを考えていたとは。里志の方が「省エネ」じゃないかと思ってしまった。でも、何か、誰かを「好き」になる、「こだわる」ことは、最初は楽しくても後から色々と厄介になってくる。それなら、と里志の方向転換に頷けてしまうけど、寂しい。
 奉太郎は「省エネ主義」だが、人の気持ちはないがしろにしない。「愚者のエンドロール」で入須先輩との2回目に会ったシーンを思い出す。

 アニメでは追加されているシーンがあります。「正体見たり」の最後、「チョコレート事件」の最後の方、「遠まわりする雛」の祭りが終わって奉太郎が里志と摩耶花といるシーンでの会話。これらは、アニメスタッフさんたちの優しさだと感じました。「正体見たり」が原作のままだと悲しい。バッドエンドではないけれど、えるにとっては辛いエンドだ。それを、ワンシーンを加えるだけで救った。「チョコレート事件」も摩耶花とえるのシーンを加えるだけで救われる。古典部の4人が、これからもいい仲でいられると思える。

 「心あたりのある者は」は純粋に推理そのものを楽しめる話。校内放送ひとつで、ここまで読み込めてしまう。面白い。アニメでも、部室で奉太郎とえるがただひたすら推理の会話をしているだけ。派手な演出はない。それなのに面白い。"世の中"を読み解く面白さ。それがミステリの醍醐味なのだと思う。

 アニメ化されたのはここまで。あと、アニメのために書き下ろした18話「連峰は晴れているか」は最新作「いまさら翼といわれても」に収録されています。この回も、奉太郎とえるの優しさが感じられる回だった。

 今後も古典部シリーズを読んでいきますが、アニメ2期が観たかったな…。例の事件の後に読み始めて、アニメも観たけど、本当に面白い作品。こんな素敵な形でアニメ化されてよかったな…。原作のストックがまだ足りないのでまだまだ先でもいいですから、2期が観たいです。
 コミカライズは第5作以降もやるとのこと。コミックを読む?

【過去記事】
氷菓 [小説 +アニメも少し]
愚者のエンドロール [原作小説 +アニメも少し]
クドリャフカの順番 +アニメも少し
by halca-kaukana057 | 2019-11-05 22:27 | 本・読書
 先日、この記事で後で書くかもと書いたことを。
クドリャフカの順番 +アニメも少し

どこかの大学で、『クドリャフカの順番』での伊原と河内の論争(「知られていなくとも普遍的な価値を持つ創作は存在する」vs「万人が認めたものが結果的に価値を持つに過ぎない」(大意))を受験問題に引用し、「文学作品を評価すること」について思うところを述べよ、という問題が出たそうです。
 
 米澤穂信 (@honobu_yonezawa) 2019年3月27日 午後8:02

或る推理作家の苦悩 ~入試問題での引用と過去問集への収録~

 米澤先生大人気ですね。

 さて、本題。「クドリャフカの順番」で、主人公たちが所属する「古典部」部員のひとりで漫画研究会も兼部している井原摩耶花と、漫画研究会の河内先輩が論争になります。発端は漫研の文集。漫画のレビューを載せたもので、摩耶花は積極的に執筆に参加したが、河内先輩はあまり積極的ではなかった。その文集の売れ行きがあまりよくなく、それを見た河内先輩と河内先輩派の部員が文句を言い出す。それに対し、摩耶花が反論。いつしか摩耶花と河内先輩の論争に。
 「名作」とは何か。それが論題だ。
 摩耶花は、名作は存在すると主張する。知られていなくとも普遍的な価値を持つ創作は存在する。
 河内先輩は、人それぞれがその人の感じ方で「面白い」と思い(作品が面白いのではなく、読み手が決める)、そう思った人が多い作品、長い年月にわたって思われ続けた作品が名作と呼ばれているだけ、と主張する。

 私なら、どんな答えを出そうか。
 ちなみに、ここで語る作品は漫画に限らず、文学作品、音楽、その他創作物全体で考えます。私の場合漫画や文学作品だけだと難しい。(この入試の論点から外れてしまうが)

 河内先輩の言い分もわかる。名作、人気のある作品に触れても、「面白くない」=「私には合わなかった」「私は苦手だ」と思うことは少なくない。面白いのだろうけど、私はそこを面白いと感じられない。苦手なタイプの作品だった、物語は面白いと思うけど絵や言葉遣い・音遣いが苦手、自分には馴染みのない設定・物語でよくわからない、その作品の設定が苦手・地雷、さらーっと読んだ・聴いたので印象に残ってない、その日の体調や気分に左右された…理由は挙げるときりがない。このブログには、私が面白いと思ったものについて書いているので、実は読んだ・聴いたけど面白いと感じられなかったので書いていないものもあります。
(反対に、すごく面白いのだけれども、うまい表現ができなくて書いていないものなども大量にあります)

 でも、自分は面白いと思えなかったけど、この作品のこんなところがすごいんだろうな、こんな所に感動するんだろうな、とも思います。名作の所以なんだろうなと。そんな時、悔しいなと思います。自分も一緒にこれ面白いよね!と盛り上がりたかった。

 摩耶花の意見はその通りだと思う。漫画で考えると、漫画を出版している会社は大手から小さな出版社、同人作品を合わせると星の数ほどある。小さな出版社で、新人かあまり知られていない漫画家で、でも面白い漫画がある。書店もそんなに数多く入荷しない。入手が難しいこともある。でも、面白い。物語や絵に引き込まれて一気に読んでしまった。そんな作品はある。大勢の人が名作と言っている作品でも、声は多くなくてもじわじわと人気を集めている作品でも。映画ならわかりやすいかもしれない。単館上映のあまり知られていない作品が、いつしか話題になってどんどんお客が観に来て、多くの映画館で上映される。賞まで取ってしまった、なんて作品だってある。

 クラシック音楽で考えるとわかりやすいと思う。今は名作として演奏機会も多く、よく聴く作品でも、初演は大失敗だったとか、ある時期までは歴史に埋もれていたが演奏機会を得て広く知られるようになったとか、初演後ある時期まで封印され演奏されることがなかった作品などがたくさんある。政治的な圧力で、演奏を禁じられた作品もある。あまりにも同じ曲ばかり演奏されると「またか」と思ってしまうが、そういう作品こそ、その演奏家の読解や個性が表れやすく、聴くと面白い。「またか」と飽きたような態度を取ってしまうけれども、聴くとやっぱりいい曲だ、魅力がいっぱいだと思う。音楽は聴くだけでなく、自分で演奏できるのも楽しい。その作品の魅力を自分で表現できる。自分で表現すれば、その作品のすごいところがよくわかる。

 ここで、疑問がある。名作だから面白いのか。名作じゃないと面白くないのか。名作と呼ばれれば、多くの人は面白いと認めてしまうのではないか(作品そのものに関係なく、売り方でそのようなやり方をするのは見かける)。
 世間ではいまいちと見なされている作品を面白いと言う人はいる。作者は失敗だったと言っていても、それを面白いと思う人はいる。一体何が名作なのか。

 でも、名作は存在すると思う。名作と言われる作品には、やはり力はあると思う。でも、それを自分が感じ取れるか…それは読んでみないと、聴いてみないとわからない。河内先輩の意見の一部は否定しきれない。個々人、好みや苦手がそれぞれ違うのだから仕方ない。

 自分の主観と、名作という他者の主観。多くの視点から捉えて、でも自分の立ち位置を忘れることなく、バランスよく…これはすごく難しい。でも、様々な作品に触れる上で必要な力だと思う。作品から何かを読み取る力。心を耕すなんて言い方は教育的過ぎるけど、心を耕して作品を読み取り、作品を読み取って心を耕す。面白いという気持ちをどんどん増やせていけたらと思う。面白いという感情は、エネルギーだから。

 本当に難しい…。入試だからもっとまとまった、ちゃんとした答えを書かなきゃいけないのに…これじゃ解けてないよ…。
by halca-kaukana057 | 2019-11-01 23:22 | 日常/考えたこと
 「古典部」シリーズ読み続けています。第3作の「クドリャフカの順番」。宇宙好きとして、タイトルに惹かれるんですが(でも意味がわからない)。



クドリャフカの順番
米澤穂信/KADOKAWA,角川文庫/2008(単行本は2005年)

 いよいよ文化祭が始まった。しかし、古典部の4人は浮かない顔をしている。手違いで、文集「氷菓」を印刷しすぎてしまった。30部の予定が200部。何とか完売させようと、えるは宣伝ができそうな団体に交渉に向かい、里志は古典部名義でイベントに参加し、そこで宣伝することになった。奉太郎は店番。摩耶花は漫画研究会があるのであまり顔を出せない。それぞれ、想いを抱いて持ち場へ向かう。えるや里志が行く先では、奇妙なことが起きていた。いくつかの団体から物がなくなり、そこにはメッセージカードと文化祭のパンフレット「カンヤ祭の歩き方」が置かれていた。文化祭が進むにつれて、その"被害"は広がっていった…。


 文化祭の始まりです。文集「氷菓」も完成しました。第1作で解き明かされた「氷菓」と「カンヤ祭」についてのことも書かれている文集です。
 この第3作は、古典部4人それぞれの視点で書かれています。今までは奉太郎だけの視点。4人の考え方の違い、見ている物の違い、それぞれに起こった出来事、それぞれの想いがストレートに描かれています。4人それぞれの想いがわかるのが嬉しい。そして、奉太郎の姉、供恵も登場します。文化祭でキャラクターも一気に増えました。
 賑やかで楽しい雰囲気なのですが、不思議な事件が起きる。様々な部活、団体から物がなくなる。その団体の頭文字と同じ頭文字の物が「失われる」。置かれたメッセージには「十文字」と署名があるが、神山の「桁上がりの四名家」のひとり、十文字かほも被害に遭っているので彼女が犯人ではない。一体誰が何のために?事件は壁新聞部の新聞などでも取り上げられ話題になる。そして、被害に遭った団体の法則性から、その犯人は古典部も狙っているらしいと…。文化祭がますます賑やかになります。学生時代の文化祭の賑やかな雰囲気を思い出します。

 その賑やかさの一方で、摩耶花の漫画研究会の雰囲気が…。同じものが好きで、集まったとしても、その気持ちのベクトルは同じではない。私も今まで何度も苦い思いをしてきました。それが表面化し、河内先輩と摩耶花が対立する。この対立した意見が興味深い。検索したら、どこかの大学の入試問題にもなったらしい(「古典部」シリーズはじめ、米澤先生の作品は入試問題に多数取り上げられているらしい)。ここで書くと長くなるので別記事にするかも。
 その対立で、摩耶花が例に挙げたある同人漫画。その漫画も鍵になります。
 この第3作は摩耶花が本当に頑張り屋さんで、強くなりたいという想いが伝わってきます。奉太郎は毒舌家と言っていましたが、ただの毒舌家ではない。先輩が相手だろうと、はっきりと自分の意見を言う。河内先輩側の部員に陰口を言われたり、意地悪をされても、落ち込むけれども負けない。一生懸命な子だとわかります。その摩耶花と河内先輩の橋渡しをする部長も素敵です。河内先輩も、最後には自分の想いを摩耶花に打ち明けてくれたし。

 里志も最初はノリノリで文化祭を楽しんでいるのですが、"事件"が進むにつれ、"事件"を解き明かそうと奔走する。現場に向かい、現行犯で犯人を捕まえてやろうとする。里志の想いもストレートで、一生懸命で…。今まで、「データベースは答えを出せない」と謎解きはしてこなかった里志が、何を思っているのか。切なくもあります。

 えるは各団体に交渉に向かうもうまくいかない。前作のキーパーソン、2年F組の入須先輩が再登場。えるにある指南をするのですが…。えるも一生懸命。でも…。第3作は、奉太郎以外の3人がとても切ない。それぞれの壁にぶつかる。それを青春と片付けてしまうか、もっと掘り下げるか。私はもっと掘り下げたい。青春に限らないことだから。

 その3人+河内先輩+"事件"の犯人が抱いているある感情。その掘り下げたいこと。「期待」と表現されています。自分にないもの、自分ではできないことを誰かに望む時に「期待」という言葉を使う、と里志は言っています。すごくわかります。「期待」だとまだまっすぐに相手に望んでいますが、ネガティヴな感情が入り交じると「嫉妬」、「羨望」などになる。私は自分のそんな感情をうまく扱えなくて、こじらせて「羨望」「嫉妬」してしまう。または、自分自身を責めたり、辛く当たってしまう。最近はそういう感情を抱きそうになったら、その対象(人)から距離を置くようにしたり、自分の気持ちを守るために「他者は他者、自分は自分。自分にできることをする」と考えるようにしている。素直に喜んでその対象(人)を賞賛できる時とできない時がある。難しい。人にはそれぞれ得意なものがあって、皆違うから、と思うのは簡単だ。でも、それを心から思い、自分は自分と割り切る難しさ。やりたいことがあるのにうまくできない一方で、身近な他の人が意外にもうまくできてしまった時の気持ち。別に勝負しようなんて思っていない。なのに、悔しい、なぁ…。私が、自分が、と主張し、その人よりも上に立ちたいのだろうか。そうじゃない。やりたいこと、表現したいことがあるのに、できなくて途中で止まってしまった。それが悔しい。
 これはまだいい。その他の人は、できてしまったことをあまり深く考えていない。その時だけで、その後はやろうともしなかったら。残念の一言では片付けられない。何故、と問いたくなる。あなたには才能が、技術があるのに。虚しくなります。5人の叫びたいような想いが伝わってきました。

 その一方で、"事件"を解いてしまった奉太郎。奉太郎は、自分が得意なこと、自分にできることを成し遂げ、「期待」にも応えた。でも、それをひけらかすことはなく、犯人と一対一だった。前作「愚者のエンドロール」で、入須先輩に言われたこと、奉太郎の読み間違いから成長した感じです。"事件"を解くだけでなく、文集の店番をしながらお料理対決では古典部のピンチを救った。「わらしべプロトコル」には笑いました。奉太郎は引き寄せる体質なのか。奉太郎は「省エネ」から脱しつつあるけれども、まだ「省エネ」なところがある。地学室から動かない店番を選んだこと。"事件"の推理は奉太郎にとっては、「他者は他者、自分は自分」だから。自分がやらなくていいことはやらない。自分ができることだけをしている。

 でも、最後には自分自身を取り戻す古典部の4人。皆優しい子たちなんですね。
 あと、「クドリャフカの順番」の中身が知りたかった。「夕べには骸に」も。これ以上はネタバレになるので書きませんが…どんなものなのか知りたかったな。



 GYAO!で配信中のアニメ「氷菓」も「クドリャフカの順番」の回が終わったところ。文化祭の描き方は、さすが京アニとしか言えません。とても賑やかで、華やかで、楽しい。えるが他団体に交渉に校内を奔走する…つもりが様々な団体の催し物に引かれ、楽しんでしまっている。好奇心旺盛なえるらしさを、アニメだからこその表現で描いてくれました。書道で書いた言葉はえるらしい。えるのあの写真はやっぱり京アニだな、と。摩耶花と対立する河内先輩は、最初は嫌な先輩と思いましたが、最後の本心を明かすシーンでは引き込まれました。心の内のネガティヴな感情を出す時の人間が魅力的に思えるのは何故だろう。供恵さんの顔を見たい、と思ったのですが…。なんという結果。
 オープニングとエンディングも変わりました。オープニングのアニメはすごいなぁ。エンディングのホームズのえる、ポアロの摩耶花が可愛い。
by halca-kaukana057 | 2019-10-21 22:58 | 本・読書
 米澤穂信さんの「古典部」シリーズ第2弾です。ちょうどGYAO!でアニメも配信中。ちょうどこの「愚者のエンドロール」の回を見終わったのでその感想も。


愚者のエンドロール
米澤穂信/角川書店、角川文庫/2002

 夏休み。古典部は文化祭で出す文集「氷菓」の編集に追われていた。そんな中、千反田えるは知人に誘われたので2年F組が制作したビデオ映画の試写会に行こうと言い出した。試写会に向かった古典部の4人。そこにはえるの知人である、2年F組の入須冬実が待っていた。ビデオ映画は「ミステリー」と仮題がついた密室殺人事件ものだった。しかし、映画は途中で終わってしまう。脚本を書いた本郷真由は、脚本を完成させる前に体調を崩し入院してしまった。入須は、古典部に、折木奉太郎に、本郷の脚本の続きの答えを出してほしいと頼む。犯人は誰なのか、トリックは?古典部の4人は2年F組のビデオ映画制作スタッフ3人から話を聞き、答えを導き出そうとするが…。


 2作目はミステリー作品をめぐるミステリーです。第1作「氷菓」ではよくつかめなかった摩耶花の性格、得意なこともつかめてきました。そして2年F組の先輩たち。入須先輩は本当に高校生なのだろかと思うぐらい大人びている。本を読み始めると最初にあるチャットの会話ログが出てくる。2000年代のインターネット上のサイトの交流ツールといえば、掲示板(BBS)とチャットだった。今の若い人には他人も見られるLINEのトークと言えばいいかな。最後まで読んで、もう一度最初のチャットを読むと、そうだったのか、と思う。

 ミステリーとは何か。推理ものとは何か。それを探る物語でもありました。作品中でも取り上げられますが、私が「シャーロック・ホームズ」シリーズを読み始めた時、殺人事件ものは苦手なんだけどな…と思いながら読んでいた。でも、「ホームズ」の作品にも色々な種類がある。これも推理もの、ミステリーなんだと思った。その頃思っていたことを、思い出しながら読みました。「ホームズ」はミステリーの入門書と私も思っていたのだけど…。ホームズ作品に思い入れのある里志の話が助けになります。また、里志から見た摩耶花についての発言もある。摩耶花もすごい子なんだよなぁ。

 今回も奉太郎の推理が炸裂しますが、奉太郎一人だけでは「答え」を導けない。「答え」に近づけない。里志、摩耶花、えるがいて、それぞれの視点があって、奉太郎も推理できる。そしてこの古典部4人のつながりは、入須先輩が見据えているものとはまた違う。奉太郎の「省エネ」主義と、入須先輩のやり方、見据えているものは完全一致ではないけれど、どこか近いものがあるのかもしれない。でも、奉太郎は変わりつつある。2回目に入須先輩と2人で話した時、奉太郎の叫びは「省エネ」とはほど遠いものだった。何人もの人間を思っている。

 ミステリーとは、人間の本質、人間の心理を追求するものなのかもしれない。危機的状況、窮地に追い込まれた時、人間は何を考えて何をするのか。読んだ後にそう思いました。

 GYAO!で配信中のアニメ「氷菓」は、2010年代にうまく合わせて、原作のポイントをうまく生かしたテンポのよいものになっていたと思います。入須先輩や、古典部が話を聞いた2年F組の3人、特に沢木口先輩はイメージ通りでした。アニメで観るとより原作の面白さを実感できる。11話の打ちのめされていく奉太郎の表情がとてもよかった。本当に絵がきれいで、その絵で登場人物の心の中を表現している。いいアニメだなと思います。

 古典部シリーズ、まだまだ続きます。
by halca-kaukana057 | 2019-09-28 21:58 | 本・読書
 以前、「満願」を読んで作者の米澤穂信さんのことを知りました。米澤さんの代表作でデビュー作と言えば、「氷菓」に始まる「古典部」シリーズ。タイトル、「古典部」シリーズのことは名前は聞いたことがあったけど中身はよく知らない。アニメ本編も見たことはない。気になるから原作を読んでアニメも観てみようと思っていたら…こんなことに…。
満願


氷菓
米澤 穂信/KADOKAWA、角川文庫/2001(初版は角川スニーカー文庫、2001)


 高校に入学した折木奉太郎。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」をモットーとする「省エネ」主義者。これといって趣味もなく、何かに活力を持つことを浪費と思っている。そんな奉太郎は、世界中を旅している姉の供恵から、彼女が所属していた部活「古典部」に入れという手紙が届く。部員がおらず廃部寸前の「古典部」を守りなさい、と。
 その通りに古典部に入部した奉太郎は、部室の地学講義室に向かう。鍵を開けると、一人の女子生徒がいた。同じ新入生の千反田える。さらに、奉太郎の旧友の福部里志もやって来る。えるは鍵を持っていないのに講義室の中にいた。その時鍵は開いていたという。奉太郎がやって来るまでえるは部屋に閉じ込められていた…えるは疑問を持つ。

 ミステリーものと聞いていて、人が死んだりするのは全く駄目ではないがあまり気分がよくないなぁ…と思っていたが、そういう話はない。あらすじにも書いた、えるが教室に知らない間に閉じ込められていたこと。些細なことで、まぁいいかと流してしまいそうなことだ。えるには何も危害もなく、奉太郎も困ることも何もない。でも…。えるの一言「わたし、気になります」ここから全ては始まった。

 ミステリー、推理ものは殺人事件ばかりではない。「シャーロック・ホームズ」シリーズも殺人事件だけではない。よく考えてみると奇妙なことも依頼される。(そんな奇妙な話をうまく学園ものにアレンジした三谷幸喜:脚本のNHK人形劇「シャーロックホームズ」は素晴らしい、本当に面白かった)
 ほんの小さな違和感。些細な出来事。日常生活に埋もれて、そのまま見過ごして通り過ぎてしまうようなこと。そんな「日常の謎」に、「わたし、気になります」と興味を持つえる。情報通で様々な知識を提供する里志。えるの好奇心から逃れたいと思いつつも、興味を持ってしまい、それらをまとめて、推理する奉太郎。ホームズは、「君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違いなんだ。」と言う。ただ「見て」いないで、「観察」した上で「気になる」と言うえる。「観察」して答えを導く奉太郎。とても面白い。導き出された答えも、日常の些細なこと。でもよく「観察」すれば面白い。奉太郎がこんなに推理力があるのは何故なのだろうか。成績もとてもいいわけではない(学業に関しても「省エネ」だから)。そのあたりは後のシリーズで明かされていくのだろうか。
 「古典部」にはもう一人、奉太郎の幼なじみの伊原摩耶花も入部する。私はまだ摩耶花のキャラがつかめていない。これも後々か。

 「古典部」の活動は特に決まってはいない。ただ、文化祭で文集を出すことが伝統となっているらしい。この文集と、えるの過去、家の話が大きな謎に向かっていく。
 最初読んで、随分堅い、古めかしい言葉遣いをする高校生だなと思った。奉太郎も、里志も、えるも、摩耶花も。でも、この雰囲気が彼らの通う高校・神山高校の雰囲気に合っているし、この大きな謎に対してちょうどよく感じる。
 前の記事の「ファースト・マン」、アポロ11号の月面着陸は、私にとっては歴史だ。でも、当時リアルタイムで生中継を見ていた人には実際の体験だ。このある過去についての「歴史」と「実際の体験」の差。私にも、奉太郎たちにとっても「歴史」だった出来事が、文集の謎を解くことで、「実際の体験」にはならなくても、もう少し身近な「過去の実際の出来事」になる。それが、今現在や未来につながることもある。不思議だなと思う。

 「古典部」に入ったことで、「省エネ」だった奉太郎に変化が。奉太郎は、青春を「薔薇色」と表現し、一方自分は「灰色」と例えている。こんな箇所がある。
俺だって楽しいことは好きだ。バカ話もポップスも悪くはない。古典部で千反田に振り回されるのも、それはそれでいい暇つぶしだ。
 だが、もし、座興や笑い話ですまないなにかに取り憑かれ、時間も労力も関係なく思うことができたなら……。それはもっと楽しいことではないだろうか。それはエネルギー効率を悪化させてでも手にする価値のあることではないだろうか。
 例えば、千反田が過去を欲したように。
(180ページ)
 奉太郎がえるの過去や叔父のこと、そして文集のことで触れたことは、奉太郎の「省エネ」とは正反対のことだった。それは、「薔薇色」とはちょっとちがうけれども、熱意がある。その熱意を受け取った奉太郎。今後、どう変化していくか楽しみ。
 続きのシリーズも読みます。


 では、アニメの話も少し。ちょうど小説を読んでいたら、GYAO!でアニメが配信開始されました。

GYAO!:アニメ:氷菓

 観てみました。まだ2話までしか観ていませんが面白い。原作を絵にするとこうなるんだなぁ、と思う。伏線、推理の鍵となるものが何気なく登場しているのがいい。ああ、これか、と。登場人物の口調も上述の通り、高校生にしては堅い、古めかしいが、今風のキャラデザのアニメに合うのがすごい。「古典部」の世界だと思えてしまう。アニメで観るとまた違う。面白さが倍になる。アニメも最後まで観ます。
 オープニングの映像もきれいで、Chouchoさんの歌もいい。奉太郎のことであり、えるの願いのようにも思える。そして、オープニングを観ていたら何故か涙が溢れてきた。ちょっと切ない歌のせいだろうか。それとも、スタッフクレジットを読んだせいだろうか。事件が起こった時はとにかくショックだった。このブログでも、「けいおん!」や「日常」を取り上げてきた。大好きなアニメだ。何かできることはないかとささやかだが募金もした。他のアニメを観ていても、大勢のスタッフさんたちがいて、このアニメはできているんだと思うようになった。この「氷菓」は、アニメそのものも面白いけれども、作り手のことを思わずにはいられない。アニメ「氷菓」は、その意味でも見届けたい。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
by halca-kaukana057 | 2019-08-26 22:54 | 本・読書

ある一生

 よく、本屋や図書館で偶然目にした本を読んでみたら面白かった、ということはあります。ネットではそういうことがない、と。でも、ネットでも、たまたま見つけた本が気になって、読んでみたら面白かった、ということもある。そんな本です。


ある一生
ロベルト・ゼーターラー:著、浅井晶子:訳/新潮社、新潮クレスト・ブックス/2019

 20世紀初頭、アルプスのふもとの村。アンドレアス・エッガーは私生児として生まれ、母親はエッガーが幼い頃に亡くなった。4歳ぐらいのエッガーを引き取った農場主のクランツシュトッカーは、エッガーに厳しい労働を課し、事あるごとに体罰を与えてきた。その体罰が原因で、エッガーは右の脚が不自由になってしまう。それでも、エッガーはたくましく成長し、18歳の時農場を出て一人で暮らすようになった。その後、29歳になった頃、エッガーは山の中に小さな小屋つきの土地を買い、そこに住んでいた。吹雪のある日、エッガーはヤギ飼いの老人「ヤギハネス」の小屋に立ち寄り、ヤギハネスが瀕死の状態にあるのを見つける。村にヤギハネスを運ぼうとするが、その途中、ヤギハネスは「死ぬ時は氷の女に会う」と言い残し、吹雪の雪山へ向かってしまう。その後のエッガーは…。


 そんなに長くない物語です。でも、とても濃い。「ある一生」のタイトルのとおり、エッガーの生涯について語られる。恵まれない…と思うのは、エッガーにとってはどうなんだろう。エッガーは「恵まれない」と思っていたようには思えない…。過酷な環境で育った少年時代。虐待により、脚に障碍を負ってしまう。でも、この物語は「障碍者」としてのエッガーの物語ではない。あくまで、ひとりの人間としてのエッガーという男の物語だ。だから、エッガーを「恵まれない」「かわいそう」とは思ってしまうが、それはエッガーにとっては本望ではない。

 エッガーはとてもたくましい、力強い男で、どんな過酷な仕事もする。エッガーの住む村・山を観光のために開発していた会社で仕事をする。不平不満を一言も言わず、黙々と仕事をする。山で仕事をするには過酷な冬でも仕事をする。それは、愛する妻のため。素直で、朴訥で、仕事以外の面では不器用なエッガーのけなげさがまっすぐ伝わってくる。そんな、エッガーのある喪失。素直でけなげだからこそ、そのかなしみもまっすぐ伝わってくる。

 エッガーの生涯は、20世紀の歴史そのものでもある。第二次世界大戦が始まり、エッガーもナチス・ドイツ軍に召集される。戦場での出来事。戦時中でも、エッガーの生き方は変わらない。やれと言われた任務を遂行し、環境の厳しさに辛さを覚えることはあるが、置かれた環境では文句ひとつ言わない。ただ、時代、世の中の流れに乗って、その時その時を生きている。エッガーの住む山もどんどん変わっていく。でもエッガーは一歩一歩、ゆっくりと歩いていく。

 エッガーの生涯は、自然とともにあった。育ったアルプスのふもとの村の自然は、刻々と移り変わる。山は人間にはどうしようもない試練を与える。その厳しい自然はむごい結果を生む。エッガーもその被害に遭っているのに、山や自然を恨むことはしない。自然と一緒に生きている。戦争から帰って来たエッガーは、観光客と接することになるが、その観光客とエッガーが自然に何を感じるかの対比を描いたシーンが印象的だ。
「どこもかしこもこんなにきれいなのに、あんたには見えてないのかい!」エッガーは幸福感で歪んだ男の顔を見つめて、言った。
「見えてるが、すぐ雨になる。地面がぬかるんできたら、きれいな景色もなにもあったもんじゃない」
(111~112ページ)

 あと、134ページも、エッガーの生き様をよく語っている。長く、実際に読んで味わって欲しいので引用はしません。

 ひとりの男の生涯。この物語そのものも、エッガーのように無駄なことを一言も話さない。エッガーは、環境を、時代を、境遇をそのまま受け入れた。ごまかすことも、誇張することもしない。私も、過去も今もそのまま受け入れる…読後、そんな気持ちでいた。
by halca-kaukana057 | 2019-08-01 21:18 | 本・読書

好奇心のまま「面白い!」と思ったことに突っ込むブログ。興味の対象が無駄に広いのは仕様です。


by 遼 (はるか)
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