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 「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)の「今日のダーリン」を読んで思ったことを。

ほぼ日刊イトイ新聞
 以前も書きましたが、「今日のダーリン」はアーカイブ・ログがなく、明日になると消えてしまうので引用します。糸井重里さんが、以前は大きな声が出たのに、出なくなっていることが最近気になっている、というお話です。前半部分は省略します。

しかし、ここ1年、2年くらいの間に、
「声が出てないなぁ」と思うことが多くなりました。
最近では、声のボリュームについては、いつも不満です。
相手のところに、到達してない感覚があるのです。

王貞治さんが、選手としての現役を引退するときに、
「ホームランだと思った打球が、届かなくなった」
と語ったことをよく憶えています。
じぶんの声が出てないことを、
王選手のホームランに喩えるつもりはないのですが、
「届いてない」ということの無念さについては、
重なるところがあると信じています。
ひっかかりのある鉛筆で文字を書いている感じとか、
上りの坂道になると速度が落ちてしまうクルマとか、
思ったようにならないアウトプットは、
なかなかじれったいものです。
いっそ発声練習とかやろうかと思っていたくらいです。
 
たぶん、身体の使い方がなにかちがってきている。
あちこちの筋肉の衰えとかゆるみとかが、
影響しているにちがいないと思っていたのですが、
レッスンを受けるまでには至らずだったのです。
でもね、さっきまで、家で「ひとりカラオケ」を
2時間くらいやっていたんですよ。
そしたら、声、出るんですよねー、なんでだろう。
これ、毎日やってたら、届く声が出るようになるかな。
ものすごくうれしくなっちゃったのでありました。
‥‥ま、こんな年寄りの体調についての話なんて、
誰もよろこばないような気はするのですけどねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「届いてない」っていう感覚は、人を弱くすると思うんだ。


 その通りだなと思いました。年齢や、状況に関係なく、実際届いていなかったとわかること、「届いてない」と実感することは、とても無念ですし、悔しく、寂しく感じます。

 「届いてない」にも色々あります。
 送った郵便や荷物、メールが届かなかった。
 手紙やメールそのものは届いたけど、中身の文章に込めた気持ちが相手に届かなかった。
 手紙やメールは届いているはずなのに、返事が無い。相手からの応えが届かない。
 誰かと会話していて、その内容が届かなかった。
 街中で親しい人を見かけて、声をかけたけど届かなかった。
 仕事や日常生活で、誰かにお願いしたことがあったけど届かなかった。
 目標や夢に届かなかった。
 高いところにあるものを取ろうとして、手が届かなかった。
 欲しいものがあるけど、様々な理由で手が届かなかった。

 書こうと思えば、まだまだ出てきます。

 もの、行動、気持ち。手が、声が、言葉が、気持ちが、届かない。
 「今日のダーリン」の最後、
「届いてない」っていう感覚は、人を弱くすると思うんだ。

 全く同感です。「届いてない」とわかると、ガックリと来る。落ち込む。ため息が出る。「それだけの力が自分には無いんだな」と自信をなくしてしまう。「届いてない」が続くと、何もかも嫌になってきます。

 糸井さんは、ひとりカラオケをして、声は出る、とわかった。
 でも、声は出ても、その声は誰かに届くのか、わからない。糸井さんが書いているように、練習を続ければ届くようになるかもしれない。届ける練習は確かに必要だと思う。
 気持ちを届けるために、伝わりやすい文章を書く練習をする。
 届く声と言っても、ただ大きいだけの声では、それが何なのか相手はわからず、届かないかもしれない(よくあります。聞こえる”音”と、それが”意味を持った言葉”であると理解して聞く、のは全く別物)。なので、人に伝わりやすい、届く声を出す練習をする。
 相手が引き受けやすいように、お願いする練習をする。
 目標や夢に届くように、努力する、練習する。

 私も、届けたいなら、何か練習をする必要があるかもしれない。

 その一方で、誰かに届いて欲しいけど、特定の誰かではなく、不特定の誰かでかまわない、ということもある。一番届けたいのは自分自身。自分自身にわからせたい、そんなこともある。

 「届けたい」「届いてない」単純なようで、結構複雑です。

 私も、誰かに何を届けたくて、ブログを書いている。届けたい相手は、一番は自分自身なのかもしれない。自分の今の考えはこうなんだよ、と、いつか未来の自分に。もしくは、「届いてない」苦い思いをした過去の自分に。
by halca-kaukana057 | 2013-07-14 23:12 | 日常/考えたこと

私のストレス解消法

 先日、twitterでストレスとその解消法について会話していたので、それについて詳しく書いてみます。
・その時のログ:Twilog:@halcakaukana 2013年03月08日
 時間をクリックすると、詳しい会話を見られます。

 ストレスが溜まって、ひたすらネガティヴになり、暴言を吐きたくなることはよくある。怒りに任せて吐いてしまえば楽になるだろうか、実際そんなことをしている人もいるし…でも私にはそんな勇気はない。言った後で、きっと後悔するだろうし、そんなに気に入らないことがあったとしても、暴言を投げつけた相手に対して酷いことをしたとしこりが残るだろう。
(ちなみに、どの程度のものを「暴言」と解釈するかは人それぞれですが、私は相手を罵倒し、その存在を否定する言葉。相手が言われて嫌である、傷つくことをわかっている言葉と解釈しています)

 暴言でなくても、何が火種になるかわからない。相手がいようといなかろうと何がきっかけで、落ち込んだり、ストレスとなるかもわからない。そんなストレスを溜め込むと、心身に悪い。自分のネガティヴな面を否定してポジティヴに振舞う…いくら笑顔を作ったとしても、どこかで不自然なものが出てくるんじゃないか。その前に心身が悲鳴をあげてしまう…。辛いなぁ。

 では、本題の私のストレス発散法。

○寝る
 嫌なことが合った時は、うじうじ起きていないでさっさと寝る。ストレスが溜まっている時は身体も疲れやすくなっているので、早く寝て心身を休める。

○散歩する
 寝るのもいいのですが、身体を動かす気力があるなら、散歩しに外へ行きます。持ち物は小銭、カメラ。音楽プレーヤーも。携帯は持たない。持っていてもマナーモードにしておく。
 自然の中、海辺や田んぼ道を空や風景を観ながら黙々と、のんびりと歩く。歩いていると、だんだん気持ちが落ち着いてきます。途中、景色や面白い形の雲、空の色、草花や鳥に惹かれたらカメラで撮影。
 身近な場所でもいいし、公園や海岸に出かけていくのもいい。人工的な自然でも勿論OK.
 ジョギングが好きな人はジョギングもいいと思います。とにかく、外で身体を動かすこと。
 私は走るとすぐに疲れてしまうので、歩きます。歩く歩く歩く。
 自転車もいいかも。

○星見
 昼間は散歩なら、夜は星見。天体観測。
 黙って眺めるもよし、天体望遠鏡や双眼鏡で月や惑星(今はパンスターズ彗星も!)を観察するのもよし。メジャーなものから、小さく暗めなマニアックなものまで、星座探しをするのも楽しい。ISSなど、人工衛星を観るのも楽しい。周りに誰もいないなら、思い切ってISSに向かって手を振ってみるw(日本人宇宙飛行士が滞在中なら尚更w)
 星空写真を撮るのも、時間を忘れて没頭できるので楽しいです。

○読書
 5分、10分でもいい(なので、仕事の休憩時間でも可)。本の世界に没入する。小説でも、エッセイでも。

○書く
 いらない紙に殴り書き。誰も見ないので暴言、汚い字でOK.
 思う存分書いたら、盛大に破りましょう!

○描く
 こちらは、絵を描く。下手な、簡単な落描きでOK.イラストでも漫画でも。
 気の向くままに、どんどん描きます。

○ピアノ
 こんな時はソナチネやハノンなどの練習曲が向いていると私は思っています。
 無心で指を動かし、徹底的に練習する。

○掃除
 部屋が散らかっていると、ストレスが溜まりやすい?
 黙々と掃除。部屋の空気も入れ替え(今の花粉・黄砂の季節は注意して)。

○ストレッチ
 激しい運動は苦手なので、家で手軽に出来るストレッチ。
 「ストレッチマン」風に、もしくは録画を観ながらやると楽しいw(NHK教育オタク限定w)
 踏み台昇降も加えると、有酸素運動もできます。

 あとは音楽を聴く(短調の暗い曲。激しい曲か、静かな曲かはその時の気分による)、お気に入りの場所に行く。あと、「クインテット」の録画、DVD,CDで楽しむ(「クインテット」ファン・オタク限定w)。こんな感じです。
 あと、大事なのは、ストレスの元になるものから離れられる時は積極的に離れる。近づかない。
 強いストレスを感じている時はPCや携帯など、ネットに繋がるものにも出来れば近づかないほうがいいかも。愚痴を書き込んで、仲のよい人と会話をして気が楽になるならいいけど、微妙な言葉のニュアンスの違いで誤解など更にストレスが出来てしまうことも…。難しいね。

 出来たらいいな、と思うのが、手芸と料理・お菓子・パン作り。黙々と手を動かし、何かを作るのがいい。特に料理なら、力が必要なところもあるので、ストレス発散にもってこいですね。


 …と考えていたのだが、「ストレス発散」…「ストレス」を感じている時と言っても色々あるなと思った。
・イライラ、怒り、憎しみ
・憂鬱、気が滅入る
・何もする気力がない
・ひたすらネガティヴ思考、自責
・不安、心配、恐怖
・焦り、落ち着かない、気が散る、集中できない
・さみしい、ひとりでいたくない、孤独感
・ひとりでいたい、人付き合いで気疲れ

 分類するとまだまだあると思う。それぞれの場合で、発散方法が変わってくる。自分に合うものを見つけていきたいですね。
by halca-kaukana057 | 2013-03-10 23:19 | 日常/考えたこと
 先日の記事の続きを書きます。続き…というよりも、関連する本を読んだ、なので本・読書カテゴリです。
・先日の記事:心にかかる重力

 読んだのはこれ。

アラン『幸福論』 2011年11月 (100分 de 名著)

NHK出版


 書店で見つけて気になって、更に訳書も見かけてますます気になって、ガイド本になりそうなこのテキストを読んでみました。番組は観ていませんが、テキストだけでも読み応えがあります。

 フランスの哲学者アラン(本名:エミール・シャルチエ)の代表作「幸福論(Propos sur le bonheur)」.このテキストを読むまで知らずにいました。このテキストでは、「幸福論」の解説とともに、アランの生い立ちと哲学との出会い、「幸福論」を書くにあたって影響を受けた哲学者・思想家についての解説もあり、アランと「幸福論」について一から学べます。

 この「幸福論」は”プロポ(フランス語で「語録」の意)”という形式で書かれていて、コラムのような形になっている。内容も、日常生活に関連した内容から、幸福とはどういうことか、不幸とはどういうことか、と身近なところから哲学の世界に足を踏み入れ、考えられるところが興味深い。「幸福論」なので、幸福になるにはどうしたらいいか、という現代のハウツー本のようにも感じられますが、中身は哲学。しかも、
「本物の不幸について、私は何も書いていない。」
とある。「本当の不幸」とは、病気や事故で死が迫っている、親しい人が死んでしまった、偶然重大な被害を被ってしまったなどのこと。心身に苦しみや憂鬱、不機嫌を抱え、自分を不幸と思っていたり、不幸とみなされている人の、「不幸」について語っています。

 アランは、幸福は自分自身でつくるもの、行動とともにあるもの。待っていてもやってくるものではない。…そう書いています。確かに、いわゆる「棚ぼた」的な幸福を待つよりも、自分で行動してみてつかんだもののほうが、実感があるし、自分もやれば出来るんだという自信にも繋がる。また、心と身体の結びつき、哲学でずっと問題とされてきた「情念」について、不機嫌は伝染すること、同情や憐れみは悲しみを増大させる…など、自分のこれまでの行動を振り返りながら、哲学としての「幸福」「不幸」について考え、哲学から離れて日常生活にそれらを反映させる…という不思議な、でも納得(でもまだ全部は理解できていない)の内容に驚きました。

 先日の記事で、
心にかかっている重力をどうやって0.5Gにするんだ?悩み事の種はなかなか無くならない、重荷はそう簡単に軽くならない=解決しない。

 こう書いたのですが、アラン「幸福論」にヒントがあるなと感じました。解決はしなくても、解決させるための力を蓄えることはできる、と。

 特に印象に残ったプロポを引用します。
 負けることはありうる。乗り越えることのできない出来事や、ストア派の見習いなどの手に負えない不幸がきっとある。しかし力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。これはおそらくもっとも明白な義務である。幸福になろうと欲しなければ絶対幸福にはなれない。これは、何にもまして明白なことだと、私は思う。したがって、自分の幸福を欲し、自分の幸福をつくりださねばならない。
(76~77ページ)


 もっと「幸福論」を読んでみたくなった。幸い、訳書も様々なものが出ているようだ。アランは、大学ではなく高校で哲学を教え続け、新聞にコラムや論説を書き、「情念」とは何か突き止めるため第一次世界大戦で出兵し、戦場でも幸福とは、人間とは何かと問い続けたそう。まさに、行動の人だった。

 アランの考えは、古代ギリシアのストア派の思想から、デカルト、スピノザの思想を受け継いで展開されます。人間は、紀元前の古代から人間とは何か、生きるとはどういうことかを問い続けてきた。それが凄いと思った。哲学は、今生きている自分自身に根源的な問いを投げかける、本来は身近なものなんだと感じています。
by halca-kaukana057 | 2012-03-19 21:39 | 本・読書

心にかかる重力

 最近考えたことを。

 悩み事、心配事、不安なこと…心にネガティヴな感情がある時、心に重荷がかかっているなと感じます。心が重い。心に大きな重力がかかっているようだ。地球の重力は1G。それが、5Gとか、10Gぐらいに感じる(実際身体に5Gや10Gがかかったらどうなるか…体験したことは無いのですが、想像で)。そんな大きな重力がかかると、動くのも大変。身動きできなくなる。

 この心にかかる重力を、0.5Gぐらいにできたらいいのに。「心が軽い」という表現もありますが、まさにそれ。身動きが楽にできる状態は、通常の1Gでもいいのだが、0.5Gならもっと楽に動ける。

 ちなみに、無重力状態の0Gだと、ふわふわ浮いて、支えたり固定しておくのが大変なので、0Gだと別の問題が出てくる。

 と、そんなことを考えたのですが、心にかかっている重力をどうやって0.5Gにするんだ?悩み事の種はなかなか無くならない、重荷はそう簡単に軽くならない=解決しない。
 あと、0.5Gでいるのもいいが、その状態にずっといると慣れてしまい、1Gに戻った時に動けなくなってしまう。宇宙飛行から帰ってきたばかりの宇宙飛行士のように、立って歩けないこともある。心に重荷がある、重力がかかっていることは、決して悪いことなのではないのでは?

 何だかよくわからない文章になってしまった。でも、後日続きを書きます。これが、プロローグということで。
(ますます訳がわからない…ぞ)
by halca-kaukana057 | 2012-03-16 22:24 | 日常/考えたこと

こころと脳の対話

 この本のことは前から気になっていて、読もうと思っていました。その後、NHK-BSプレミアム「宮川彬良のショータイム」第4回の「脳科学ミュージカル」を観て、この本のことを思い出しました。茂木さんがゲストだったこともあって。脳って一体何?心はどこにある?心と脳はどんな関係にあるの?そんな疑問を抱きながら、ちょうど文庫化もされていたのでじっくりと読みました。

・「脳科学ミュージカル」の感想のようなものなど:その想いをミュージカルで代弁します 「宮川彬良のショータイム」第4・5・6回感想まとめ
↑かなりの長文記事ですごめんなさい。前半のほうにあります。


こころと脳の対話
河合隼雄・茂木健一郎/新潮社・新潮文庫/2011(単行本は2008、潮出版社より刊行)

 心理学・心理療法の河合隼雄さんと、脳科学の茂木健一郎さん。この2人が3回に分けて、脳と心、そして人間について語り合う。茂木さんと言えば、「クオリア」(脳科学において、脳の働きは数量化できる。しかし、数量化できない「質感」、「質」や「状態」のこと)。この脳科学においての「質感」について、ユングやフロイトは考えていたのか…という話から始まります。先に挙げた「脳科学ミュージカル」でも表現していたのですが、脳と心は繋がっている、でも、脳のことがわかれば心もわかるわけではない。このことに、ますます脳と心の関係にますます興味を持ちました。脳も心もまだまだわからないことばかり。そして、脳のことがわかっても心のことがわかるわけではない。こう言われると、わけがわからない…と言いたくなりそうなのですが、わからない、簡単には解明できないからこそ惹かれています。不思議だ。いや、もし脳のことが全部解明されて、心も全部わかってしまったら…人間の行動や思考をコンピュータでプログラミングできるような感じがして、そっちのほうがわけがわからないと私は思います。
 実際、第3回の部分に、パーキンソン病の原因となっている脳のある部分に電極をあてて神経伝達を調整すると、症状がパッと無くなり普通に動く。また、抑うつ症でも悲しい時に活動する中枢部分に電極をあてて調整すると、症状が全く出なくなる(全ての被験者がそうなったわけではない)。でも、寂しさや悲しみなどの感情を操作するようなことをしていいのか。どこまでやれるのだろうか、という倫理的な問題も出てくる、という内容のお話がありました。倫理的な面でも問題になると思いますし、それが出来るとしたら「感情って何だろう?心って何だろう?」という問題にまた突き当たる。脳と心の関係は、グルグルと回っているみたいだ。

 この本でよく語られ、面白いなと思ったのが「関係性」のお話。心理療法でも、カウンセラーや先生と患者の信頼関係があって、治療が進んでゆく。また、個と個の関係があって”私”があるという「華厳経」の考え方。脳でも、神経細胞がネットワークをつくって、「クオリア」も意識も生まれる。一方で、ユングの「シンクロシニティ」(共時性)は、外のものと外のものが因果的に結びつくのではなく、自分の無意識と外のものが呼応する。関係性があるといっても、何にでもあるわけではない。確実ではないのに因果があると思い込むと、視野が狭くなってしまう。思考が偏ってしまう。関係性があるという面白さと同時に、何でも繋がっている…とは簡単には言えないのだなという別の面白さを感じました。

 また、科学に対するお話も。事象を一般化、標準化できないと、「科学的」とは言えない。例えば、箱庭療法でも、「科学的」にやるには箱庭で使うものを一般化すべきだという考え方があって、実際使われているところもある。でも、「全体をアプリシェイト(味わう)することが大事であって、インタープリット(解釈)する必要はない」(23ページ)と河合さんは主張し、ゆるい基準だけ決めておいてあとはセラピストと被験者に任せるという形になっているそうだ。
 「科学的」と言われれば、しっかりとした理論があって、理路整然とした実験・観察に基づいたデータの裏づけがあって、確実なもの、というイメージがある。そうでないものは「非科学的」。確実ではない…のだとしたら、心は、心理学はどうなのだろうか。河合さんと茂木さんの科学への鋭い眼差し・見解に、今まで自分が抱いてきた「科学的」なものと「非科学的」なものを線引きしてしまうことへの危うさを感じました。ドキリとします。

 第2回の対談では、河合さんの京都のオフィスで、茂木さんが箱庭をやってみる。茂木さんは大学時代に精神分析に興味を持ち、箱庭を継続してやっていたことがあるそう。茂木さんの箱庭の続きを見たかった、そのお話を聞きたかったなと思います。河合さんが急逝してしまったので、叶いませんでしたが…。

 初めは、河合さんが脳について茂木さんに話を聞くはずだったのが、茂木さんが河合さんの心理療法について話を熱心に聞いたり、河合さんが茂木さんの話をうまく引き出したり…。そして脱線やジョークも。脳と心の不思議に惹かれると共に、この2人のお話そのものにもぐいぐいと引き込まれる本でした。

 脳と心に対する疑問は、きっとこれからも持ち続けると思う。グルグルと。わからないからこそ、面白い。


・参考:以前読んだ茂木さんの著書:すべては音楽から生まれる
 ↑脳科学のお話もありますが、タイトルどおり音楽…クラシック音楽、特にシューベルトについて。
by halca-kaukana057 | 2011-12-23 23:53 | 本・読書

グラデーションと余白

 人と話したり、twitterのタイムラインやあちらこちらのブログ・サイト等を読んでいると、色々な意見・考えに出会います。自分の苦手な分野やあまり興味関心を持たずにいたことや、自分の思いつかなかった視点からの意見に会うと、関心したり、もっと話を聞きたい、詳しく知りたいと思ったりします。自分の勉強不足を実感して、落ち込むことも。また、あまりにも多くの人々の意見や、多くの人が集まって声高に主張するのに出くわすと、自分の処理能力を超えてしまい頭がパンクするような感覚を覚えたり、辟易してしまうこともあります。しかし、これも人の数だけ意見や考えもあるのだと実感します。

 そんな毎日ですが、「意見を持つこと」について考えたことを。

 何かについて考え、それを自分の意見として持つ時に、白黒つけられない時があります。例えば、何かお題があって「はい」と「いいえ」、「賛成」と「反対」のどちらかを選びなさいと言われると、困ってしまうことがあります。「どちらかといえば~」、「まあまあ~」という中間的な選択肢もあるのですが、それも曖昧、霧に包まれたようで選びがたい。「○○には賛成だけれども、△△の面では疑問が残る」とか、「どちらかといえば反対だけど、□□ならば反対とは言い切れない」とか。あと、自分の立ち位置を意識する時も、○○でもあるけど、△△でもあり、その他にも…と、はっきりと「これだ!」言い切れない。

 また、ひとつの意見を持ったとしても、他の意見を持っている人は何故その意見を持ったのか、その立場に立っているのか、理由を知りたい、聞きたいとも思う。

 自分の「意見をはっきりさせること」は、大事だなと子どもの頃から思ってきたし、学校でもそう学び、実践した。でも、あえて自分の「意見をはっきりさせない」ことも必要なのかもしれない。意見・考えにもグラデーションがあると思う。はっきりしている部分よりも、そのグラデーションの濃淡の部分に、意見・考えを深める鍵があるのではないかと思いました。はっきりさせることのできない、白黒付けられない部分。そこを切り取ったり、どちらかに無理矢理配分するのではなくて、グラデーションである理由・背景を見つめ、自覚することが大事なのではないか、と。

 また、意見を持つ時、何かについて考える時、答えを出して「これが私の考えです」と言い切らないで、余地・余白を残しておくことも必要なのではないかと思いました。大体80%ぐらいにしておいて、残りは後で考えを付け足したり、考え直したり、人の意見に接したりする”余裕”として残しておく。学生時代、ノートを取る時に、ページの右側に、ノートの4分の1程度の部分を余白として残しておいて、復習した時に書き足せるようにしておいていました。今も、勉強するノートには余白欄を作っています。結構便利です。話が脱線しましたが、そんな余白を作っておく、余地を残しておく、余裕を持っておきたいなと思います。変化や多様性に、柔軟に対応するためにも。

 思考を、感覚を研ぎ澄ますのも必要な時がありますが、ピンと張り詰めてばかりでは疲れてしまうし、何かの拍子で切れてしまうかもしれない。そのための”あそび”が、曖昧さ、濃淡、余裕なのかなと思いました。
by halca-kaukana057 | 2011-04-08 21:28 | 日常/考えたこと

私ではない私を演じる

 先日の漫画「屋根裏の魔女」(磯谷友紀:作)の感想でも書いたのですが、演劇、自分とは違う誰かを演ずることで、「自分とは違うタイプの役だな…と感じても、もしかすると同じような要素を自分も持っているかもしれない。演じながら、そんな面に気づくこともある。」と書いた。演劇だけでなく、読み聞かせや朗読でも同じことを体験できる、とも。この、自分とは違うけれども、自分の奥底にあるかもしれない同じ要素・人格を演じてみることは、結構重要なのかなと感じています。

 時々、自分の中でどうしたらいいのかわからない感情をもやもやと持つことがある。その多くは、かなしい、辛い、苦しい、悔しい、羨ましい、妬ましい、憎い、嫌い…といったネガティヴな感情。こうやって羅列してみたけれども、実際は色々な感情が同時に絡まって、自分自身でも実体をつかめずにモヤモヤと心の中に渦巻いている。それをどう扱ったらいいのかわからなくなる。誰かに話したら引かれそう、相手を嫌な思いにさせてしまいそうだと感じて口にするのを躊躇する。誰にも見られないように紙などに書いてみても、そこで行き止まり。結局自分の中で堂々巡りをするだけ。どこに向けたらいいのかわからない。行く先がない。そうして心の中にしまっておくと、いつまでもモヤモヤと渦巻き、停滞し、心の中がそのネガティヴな感情に支配されて、落ち込んだり元気をなくしたりしてしまう。

 こんな時、そのネガティヴな思いを「演目として演じる」ことができれば、うまく昇華できるのではないかなと考えた。演劇をしている人なら劇にして演じる。物語にして何らかの形で発表してみる。ただしこの時、自分自身から切り離して、別の誰かとする。自分をこの時だけ、別の誰かにしてしまえば、客観的に自分をみることができる。モヤモヤがだんだん晴れてきて実体をつかめるようになるのかもしれない。

 ネット上でなら、全く違うアカウントで、違う人になりきって、ブログなどを書いてみるのもありかもしれない。文体などでばれないように注意して。


 あと、話を最初に戻して、楽器を演奏すること、歌うことなど音楽活動でも、自分とは違うけれども、自分の奥底にあるかもしれない同じ要素・人格を演じてみることは面白いのではないかと思う。自分の性格や好みとは全く異なる曲想の作品に取り組み、演奏することで、自分の中にある知らなかった要素に気づくかもしれない。自分で演奏したい作品を選んでいると、いつも同じような作品になってしまうこともあるので、あえて自分はこの作品は選ばない!と思う作品に取り組んでみたら、また違う景色が、自分が、見えるかもしれない。


【過去関連記事】
屋根裏の魔女:作品感想

ピアノで広がる”自分”:過去にも、ピアノ演奏で思いもしなかった自分の一面に気付き、演奏することで自己を再確認することができるのではないか、と書いていた。今もそう思います。演奏する作品のレパートリーがなかなか増えないので、広がりも出ていないのがかなしい…。
by halca-kaukana057 | 2010-11-29 23:19 | 日常/考えたこと

屋根裏の魔女

 「本屋の森のあかり」の磯谷友紀先生の別作品。「本屋~」8巻と同時に発売されました。


屋根裏の魔女
磯谷 友紀/講談社・KCデラックス/2010

 高校生の明日実は演劇部に所属し、幼馴染でテニス部員の朝実と3日間だけ付き合った。朝実はその後、テニス部の後輩の理恵子と付き合いはじめ、明日実と朝実の関係も幼馴染の友達に戻ったが、明日実は文化祭で発表する劇のシナリオを書きながら、朝実のことを考えていた…。
 バードウォッチングの活動をしているバード部の実地は合宿での活動中、ある鳥を探していた。幼馴染でバード部と演劇部を掛け持ちしている慧は、演劇部で今回の劇の主役に抜擢された実加子と付き合っている。その鳥は、タロットや占いが得意だった実地にとって、そして慧との関係にとって、とても大きな存在だった…。



 お話で主役が入れ替わり、登場人物がそれぞれ何かしらの関係で繋がっていることで、不思議な雰囲気を感じました。さらに、この作品の根幹にある「夜の魔女リリト」の存在も。リリトは旧約聖書ではアダムの最初の妻(知らなかった!)。キリスト社会ではどちらも魔女として美の神ウェヌス(ヴィーナス)と同一視されることが多い(全然知らなかった!!)。このリリトを主人公とした劇が語られつつ、明日実たちの心の奥底が語られ、表面化してゆく…。不思議な、ミステリアスな物語です。

 このブログでもよく書いているが、人間は多面的な存在だと思う。第一印象だけでは決まらない。一面だけ見ていてもわからない。長く付き合ったり、ちょっとしたきっかけで本人も思いもしなかった別の面も出てくる。多面的であり、多層的でもある。奥底に眠っていて、何かがきっかけで表に浮き上がってくる面もある。そのきっかけがどんなもので、いつやってくるかはわからない。ただ、多感な年頃に、恋愛を通して表面化し、自分の思わぬ面を発見してしまうこともある。その恋が心の中だけで語られるものであっても、実らなくても、想いが通じ合っても、哀しい終わりを迎えたとしても…。

 成長の過程で、自分の思わぬ面、知らなかった面に気づいてゆく。ただ、その面が暗いものだったり、残酷なものだったりした時、人はそれにどう向き合うか、受け入れるか。誰でも、暗い・ネガティヴな面を持っていると思う。また、人に優しく温かい気持ちで接したいと思っても、心のどこかに残酷で凍りつくような冷たい想いを抱えているとも想う。私自身にもある。ただ、気づいても表には出さない、出せないだけで。ちょっとしたきっかけで親しい人に話すこともあるし、胸の中にしまっておくこともある。成長するということは、それらの思いもよらない多面的で多層的な自分とどう向き合い、その自分でどう生きていくかを試行錯誤してゆくことなんだと思う。それは、この作品のように恋愛によって体験することもあるだろうし、他のことでも体験すると思う。自分と他者。自分と自分の中にあるたくさんの自分。自分と、自分の中にあるたくさんの様々な想い・感情。はっきりとしていることもあれば、曖昧だったり、揺れ動いたりしていることも少なくない。寧ろほとんどの場合、曖昧で、揺れ動いて、自分でも扱いに困ってしまうだろう。それでも、それも自分なのだ。

 演劇部という設定は、いいなと感じました。演劇、つまり、自分とは違う誰かを演じることが出来る。自分とは違うタイプの役だな…と感じても、もしかすると同じような要素を自分も持っているかもしれない。演じながら、そんな面に気づくこともある。私自身、そこが「演劇」の魅力だと思うし、見ていても、自分で演じてもそう感じます。舞台で演じる「演劇」でなくても、絵本の読み聞かせや物語の朗読でも、同じ体験は出来ると感じています(経験者)。

 男子女子関わらず、どのキャラクタも魅力的で、その想いわかるなーと感じるところがいくつもありました。また、自分もこんな想いをしてみたい、と感じる場面も。人間の、心の奥底の魅力を感じる作品でした。人間は、普段は表に出さない、でもどこかで表に干渉している心の奥底があるから、不思議で、わけがわからなくて、時に嫌にもなるけれども、魅力的で愛おしいのだと感じました。…一言では表現出来ないや(表現しようとするのが無理!)。

 リリトの参考にどうぞ:Wikipedia:リリス (「リリト」はヘブライ語)
by halca-kaukana057 | 2010-11-27 23:14 | 本・読書

ココロの止まり木

 先日、河合隼雄先生と小川洋子さんの対談を読んで、ますます河合先生の本が読みたくなった。先日の記事に書いた茂木健一郎さんとの対談本は貸し出し中だったので、ふと目に留まったこの本を読んでみた。


ココロの止まり木
河合 隼雄/朝日新聞社/2004

 「週刊朝日」に連載されたコラムをまとめた本だそうです。本を読む時、心に留まった文章のページには付箋を貼っておくのですが、付箋だらけになりました。身近な人や、過去の自分に言ってあげたかった言葉。同じようなことを思ったことがあり、頷くばかりの文章。今自分が抱えていること、どう接したらいいかわからずにいることへのヒントとなりそうなお話。短いコラム集なので、サクサクと、でも、言葉とその言葉にこめられた想いにじっくり触れながら読めます。

 当時社会で起こっていたことを、河合先生の穏やかな、でも鋭い視点で考察しています。その根元には心理学もあるし、社会学や宗教学もある。私の生活が、今の社会で起こっていることに繋がっていて、それは過去に「心とはなにか」「人間とは何なのか」「どう生きればよいのか」と問い続けた先人たちの研究・探究に繋がっている。心とは、人間とは、どう生きるか…これは私たち一般人も考える。悩む。壁にぶち当たる。思い悩み過ぎると、自分だけの力ではどうしようもなくなってしまう。そんな時、河合先生の言葉・お話は凝り固り力が入りすぎている考え方・視点に、ふっとそよ風のようなものを吹きかけて、解きほどくヒントをくれる。また、世間で色々と騒いでいることに対して、リラックスしているのに鋭い疑問を投げかけることもある。多くの患者さんと接し、その思い悩む心、迷う心、沈黙した心…様々なココロに触れてきたからなのだろうなと思う。

 印象に残ったのが「「明るく元気に」病」のコラム。私も、同じことを思ったことがある。「明るく元気に」はいいことだろうれども、そんな気持ちになれない時もある。静かにしていたい、暗がりに沈んでいたい時もある。しかし、学校などのコミュニティでは、「明るく元気に」行動することを善しとし、「強制」されることもある。更に、この「明るく元気に」には「皆で一緒に」も付いてくる。浮き上がりかけていた沈んでいた気持ちも、声高らかにこの2つを強制されると、逆に更に沈んでしまう。
 「流れに掉さす」「妙な癖」も印象に残った。人間は多面的な存在だが、それをついつい忘れがちで、他者の目立った輝かしい部分や自分にはない部分にばかり目がいってしまうことがある。しかし、そんな部分を持っている人も、他の面ではどんな人間なのか、他者からはわからない。その多面的な部分には、精神的な病や考え方・行動の癖などその人の悩みの種となり、一見ネガティヴなものもあるが、それも「個性」のひとつなのだと許容する。その内容に、スーッと抱えていたものが少し軽くなったような感じがした。


 読んでいて嬉しかったのが、「おはなしの復権」というコラム。おはなし・物語の「読み聞かせ」が増えてきたことに関するコラムで、かつてこどもたちを相手に読み聞かせをしていた私にとって、とても嬉しくなる内容だった。大人になってから読む絵本や児童文学(最近は児童文学と分類されている作品でも、大人こそ読みたい作品も多いので、そう呼ぶのが適切なのかどうかわからないけれど…)もとても興味深く、どう読んだらそのおはなしの面白さ、魅力を引き出せるか、そのおはなしにはどんな想いが込められているのか、そんなことを考えながら練習し、こどもたちの前で読み聞かせをして、おはなしを一緒に楽しむのが本当に楽しかった。おはなし・物語そのものを楽しむ、味わうこと。おはなしで人と人が繋がること。その重要性を河合先生が温かい言葉で評価しているのが本当に嬉しかった。また読み聞かせをやりたいな、と思わずにはいられなかった。

 また、この本を読んで困ったことがある。様々な文学作品や映画が話題に出てくるのだが、それらを読みたい・観たくなり、読みたい本が一気に増えてしまったw その中には、私はこれまであまり読んでこなかったジャンルもある。この際だから読んでみよう。「読書ツアー」というコラムもあり、その旅行に参加してみたいなと思った。読書に向いた静かな場所に宿泊し、課題図書から1冊選び読む。読んでいる間は他の旅行者と交流してもいいし、黙々と読むのもよし。最後に印象に残った文章を引用し、皆の前で朗読する。いいなぁ、これ。


 それにしても、お忙しかったと思うのに、河合先生の読書量はどれだけだったのだろうか…。

・関連過去記事:生きるとは、自分の物語をつくること
 河合先生と小川洋子さんの対談集。これを読んで、まだ観ていなかった「博士の愛した数式」映画版を観ました。その話はまた今度、できたら。
by halca-kaukana057 | 2010-11-07 23:01 | 本・読書
 以前から気になっていた小川洋子さんと、故・河合隼雄先生の対談集です。


生きるとは、自分の物語をつくること
小川洋子・河合隼雄/新潮社/2008

 心理学を学ぶ前に、数学科で学び、高校の数学教師をしていたこともあった河合先生が、数学がテーマである小川さんの「博士の愛した数式」を読み、それがきっかけで2度の対談が実現しました。それを書籍化したのがこの本です。河合先生が、元々数学を専攻されていたとは知らなかった。そんな河合先生ならではの「博士の愛した数式」の読みがとても面白い。しかも、それは作者の小川さんも考えていなかったこと。数学と心理学の両方から「博士の~」を読むとこうなるのか!!と驚いてしまいました。作者が作品に入れようと考えていなくても、無意識に入ってしまう。これが深層心理というものなのかな…。

 タイトルの「生きるとは、自分の物語をつくること」。これは、小川さんが小説を書く時に考えていることなのだそうだ。
人は、生きていくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。小説で一人の人間を表現しようとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、お話の形で取り出して、再確認するために書いているという気がします。
(45~46ページ)

 一方、臨床心理も、自分の「物語」をつくれずにいる人が、自分の「物語」を発見し、生きてゆけるような「場」を提供していると河合先生も考えてカウンセリングをしていた。これにはなるほどと思った。小説を読んでいて、「これは私のことか!?」とまさに自分のことが書かれてある作品や文章に出会って、抱えていた悩みや重荷と感じていることが楽なほうへ向かうこともある。また、物語でなくても日記などの文章を書いていて、もやもやとした気持ちを表現するのにピッタリな言葉を見つけて、霧が晴れていくようなことを感じたこともあった。自分の心の形に合わないから、どうしたらいいかわからず、もやもやと心の中に停滞する。それを、「物語」とすることで、今自分がどんな状態にあるのか、理解できるようになる。ああ、私にもこんなことが合ったなと頷きながら読みました。

 しかし、小説家とカウンセラーで異なるのは、小説家は自分自身が言葉をつむぎ、物語の形にしてゆくのに対して、カウンセラーは患者の話を聞き、何かを作るのは患者自身であること。患者さんではなく、質問するカウンセラーの側が解決したい、納得したくて、誘導するような質問をするなどして、勝手に物語を作ってしまうこともある。カウンセラーが、患者さんのことを了解不能だと感じて、了解して安心・納得できるようなことを言って、患者さんに付き添うつもりが置き去りにしてしまう。カウンセラーというのは本当に難しい仕事だと思う。しかし、河合先生は、黙っている患者さんに対しても、黙ったままでいる。それはただ、何も言わないのではなく、心の中で別なことを考えてしまったら、何か言わずにはいられなくなる。患者さんもそれを敏感に感じ取ってしまう。河合先生も「僕よりも偉大なやつが来た」と思った高校生の話には唸るばかりでした。

 神話や「源氏物語」も、そのような「物語」のひとつであり、また、宗教や民族による文化の違いが表れているという内容も興味深かった。河合先生のほかの著作を読んでいても感じるのですが、本当に多方面にわたって詳しい、本当の「豊かな教養」を持っていた方なのだなぁと思う。心理学は、人間の心という全く不思議で不可解で深い世界を解き、個々の心に寄り添う学問だと私は感じている。文系の学問に分類されてはいるけれども、医学にも関わるし、歴史、宗教、文化、社会、教育、文学、芸術などなど…幅広い分野に関係のある学問だと思う。個々の心に寄り添うとなると、その患者さんごとに異なる世界、「物語」に寄り添うことになる。懐が大きくないと出来ない学問だと感じます。河合先生は、患者さんや話をした著名人の話を、「アースされて」すぐに忘れてしまう、と。だから、カウンセリングでの秘密も守れる。所々に出てくるジョークにも、にんまりします。読んでいて、生きることは難しいな、辛いな、と思うのに、いいタイミングでジョークを言う河合先生。すごいなぁと思います。

 この本は、本当は3部構成の予定でした。しかし、2007年7月に河合先生が亡くなられ、予定されていた対談の続きが出来なくなってしまった。その部分は小川さんのあとがきになり、その文章に私も共感するのですが、3回目の対談が実現していたらどんなお話になったのだろう…と思うばかりです。

 河合先生の対談で、こちらも面白そうなので読んでみたいと思ってます。

こころと脳の対話

河合隼雄・茂木健一郎 / 潮出版社



 あと、この本を再読してみたり。

こころの処方箋 (新潮文庫)

河合 隼雄 / 新潮社




・過去関連記事:博士の愛した数式
 この本の中では、映画版の話も出てくるのですが、映画版をまだ観ていなかった!DVD借りてきます。
by halca-kaukana057 | 2010-10-21 22:49 | 本・読書

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