タグ:梨木香歩 ( 21 ) タグの人気記事

海うそ

 久しぶりに梨木香歩さんの本を。昨年春に出た本です。

海うそ
梨木香歩/岩波書店/2014

 時は昭和のはじめ。人文地理学者の秋野は、亡き主任教授の佐伯が遺した未発表の調査報告書を読んで惹かれた南九州の「遅島」に、夏の休暇を利用してやって来る。かつては修験道の霊山があり、7つの寺院があったが、明治の廃仏毀釈で無くなってしまったという。秋野は遅島に住んでいる人たちと触れ合いながら、島の歴史や地名の由来、民俗、自然について歩いて調べる。豊かな自然と、そこに息づく人々の暮らし。そして伝承。それらを紐解いていくうちに、秋野は遅島の歴史を掴みかける。

 「家守綺譚」や「冬虫夏草」の雰囲気に似ている作品です。地名を調べていく過程は、エッセイ「鳥と雲と薬草袋」が元になったのかな?と思いながら読んでいました。遅島の豊かな自然、昭和10年代の雰囲気に惹き込まれます。

 タイトルの「海うそ」。遅島の言葉で蜃気楼のことを差す。蜃気楼…幻がこの作品のテーマのひとつ。また、幻はすぐに消えてしまう。消える、無くなる…喪失もこの作品のテーマのひとつだと思う。
 秋野は、佐伯教授もだが、両親、そして許嫁も亡くしている。遅島で廃仏毀釈の実際の話を聞き、さらに「モノノミ」という民間宗教についての話を聞く。住民の話を聞くうちに、その意味がわかり始める。

 何か新しいことを始める・つくるためには、古いものをどうするかが問題になる。壊して無くす、うまく共存の道を探る、手をつけない…様々な方法はあるけれども、明治から昭和にかけての時代は壊して無くす時代だったと思う。近代化のため、国家を強くするためには犠牲は不可欠…。遅島は、そんな時代に巻き込まれた舞台だった。その遅島が失ったものと、秋野が失ったものが交錯する。私も私自身が失ったものを思わずにはいられない。

 その一方で、何らかの形で残す方法もあった。それに気付き、見つけた秋野。その当時の時代や社会に抗い、自分たちが生きた証拠を地名に隠した。ここはとても興味深い箇所でもあり、彼らのことを思うとやりきれない気持ちにもなりました。

 そして、どんなに古いものを壊して新しいものをつくっても、変わらないものもある。島に住む山根は、海に面した場所に父が建てた洋館に住んでいる。その洋館からは「海うそ」もよく見える。この「海うそ」は変わらない。蜃気楼…幻のはずなのに。その「海うそ」は更に時を越える。

 50年後、老いた秋野は再び遅島を訪れることになる。その50年後の描写が、かなしくてかなしくてたまらなかった。壊して無くすの繰り返し。これが時代や社会の変化なのだろうが、「壊して無くす」しか新しいことを始める・つくるための方法は無いのだろうかと考えずにはいられなかった。しかし、秋野が再び島へやってきて、かつての遅島を語ることで、次の世代の人々も何かを受け取る。そこに現れた「海うそ」。「海うそ」だけは変わらずに…。
時間(とき)というものが、凄まじい速さでただ直線的に流れ去るものではなく、あたかも過去も現在も、なべて等しい価値で目の前に並べられ、吟味され得るものであるかのように。喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった。
 立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。
(186ページ)


 過去と現在と未来、時間、その中で変化してゆくもの。変化を否定、批判はしない。その変化をどう受け入れたらいいのか。喪失の無い人生など無いわけで、喪失とどう向き合ったらいいのか。そんなことを、読んだ後の今、考えています。
[PR]
by halca-kaukana057 | 2015-05-28 22:52 | 本・読書

冬虫夏草

 久しぶりに梨木香歩さんの小説を。昨年出版されたのをようやく読めました。


冬虫夏草
梨木香歩/新潮社/2013

 駆け出しの物書き・綿貫征四郎は、亡き友・高堂の家に住んでいる。その家や家の周りには、様々な動植物が生き、棲み、それらに囲まれて綿貫は仕事をしていた。
 飼い犬のゴローが、何日もの間帰ってこない。綿貫は学生時代の友人で菌類の研究者である南川に相談する。また、編集者の山内から、ゴロー探しに行こうと思っていた山・鈴鹿の山にイワナの夫婦が宿屋を営んでいるという話を聞く。興味を持った綿貫は、ゴローを探しに山への旅に出る。

 以前書かれた「家守綺譚」の続編です。連載されているという話は聞いていて、書籍化されないかなぁと待っていました。よかった、単行本化されて。綿貫と、亡き友・高堂、そして綿貫の身の回りの自然が静かに、でも活き活きと描かれるのは変わらず。「家守綺譚」の続編なので、ここ数年の梨木さんの作品は様々な方向に広がっていてそれも面白かったのですが、初期の雰囲気に戻った感じがして、これも梨木作品の面白さだなぁと思いながら読んでいました。

 ただ、今回は綿貫が旅に出ます。旅先でも、やはり綿貫の周りには不思議なものが集まってくる。山の中ということで、「家守綺譚」よりももっと深い自然を感じます。その自然を尊び、崇める山の人々。植物にも、水・川にも、生き物にも…全てのものに「生命」を見出し、慈しむ。その慈しみ方はちょっと奇妙なところもあり、綿貫の視点を通すと滑稽でもある。でも、自分も含めて全てが自然、「生命」である、という見方なんだろうなぁ。「家守綺譚」は、「村田エフェンディ滞土録」と繋がっている物語なのですが、この「冬虫夏草」でも、「村田エフェンディ~」で出てきたあるものが出てきて、ああ、ここに繋がるのか!と納得しました。

 それにしても、ゴローも不思議な存在だ。様々な生き物や不思議な存在たちを結びつけたり、現実と非現実の境目のようなところにいて、行き来しているような。この物語は、綿貫がゴローを探しているというよりも、ゴローが綿貫を不思議な世界に導いている、と読んだほうが面白いかもしれない。

 「冬虫夏草」というタイトルも不思議だ。幼虫のうちに菌糸に感染し、内部で増殖、冬場は虫として活動しているが、サナギになる夏になると体表を破って菌糸が外に現れる。動物だったものが、植物になる。ただ、「生命」であって、動物か植物かの分類が通用しないこともある。梨木作品の、この境界の曖昧さがとても好きです。ただ、ラストの綿貫が感じたことはわかる。大自然の中にいて、私もその自然を満喫しているけれども、自分は「その向こう」には行けない。ただ、感じることしかできない。それが、自然への畏敬なのかなぁ。

 「家守綺譚」、「村田エフェンディ滞土録」を読んでない方は、まずこの2作を読んでからどうぞ。
【過去感想記事】
家守綺譚
村田エフェンディ滞土録
[PR]
by halca-kaukana057 | 2014-10-15 22:26 | 本・読書

鳥と雲と薬草袋

 梨木香歩さんの最新刊です。


鳥と雲と薬草袋
梨木香歩/新潮社/2013

 西日本新聞に、2011年11月から12年2月まで連載されたエッセイです。鹿児島出身の梨木さんにとって縁があったり、これまで旅した土地の名前に関するエッセイです。

 土地の名前がテーマですが、梨木さんの観点・視点から書かれていて、それが瑞々しく清々しい。本のタイトルに惹かれ、でも何の本だろう?とページをめくると、「タイトルのこと」と冒頭にありました。土地の名前をテーマにしたい、でももっとふさわしい書き手がいるのではないかと思いつつも、梨木さんはこう書いています。
薬草袋にごちゃごちゃ入っているメモのように、いつか行った土地の名まえ、それにまつわる物語も、鳥や雲の話に合わせて、書いていけたらと思っている。一つのテーマに合わせて、というより、その方が伸びやかで、結局はぜんたいにいいような気がするのだ。
(11ページより)

 「薬草袋」は、梨木さんが旅の鞄に入れておいている、アドリア海の小さな島で貰ったハーブのブーケが入った袋のこと。旅の最中の色々なメモも入っている。「鳥」と「雲」は、梨木さんの机の前の窓から見える木立にやってくる鳥たちと空のこと。「鳥」は、梨木さんの以前のエッセイ「渡りの足跡」でも、渡り鳥について詳しく書かれています。梨木さんの身の回りから、旅先までが繋がっているように感じさせるタイトルだなと感じました。中身も、まさにそう感じました。

 土地の名前は不思議だ、と思う。自然の特徴からつけられたもの、歴史の中の出来事に由来するもの、そこを通る人々の感情が表れているもの…。あてられた漢字が独特な読みが難しい地名は、何故こんな地名になったのだろう?と調べたくなる。音の響きが印象的な地名も。そして、その地名が生まれた背景から、昔からそこに住んでいた・旅で通っていた人々の暮らしや思いが伺えて、地名が歴史と文化を語り伝えてきたように感じる。

 それぞれの地名の一篇は短く、でも味わい深い内容です。1000年以上も前から続いている地名から、市町村合併で生まれた新しい地名、それによって消えてしまった地名まで。新しい地名も、違和感を覚えつつもじきに慣れるのだろうか、と保留している。梨木さんのやわらかい姿勢。古くから続いてきた名前を残して欲しかったけど、新しいものも全くダメとは言えない…というような。

 西日本中心のため、東日本で暮らしてきた私は、この本で出てくる土地の名前の多くを知らないし、行ったこともない。でも、読んでいると、こんな土地なのかなと想像できるし、行ったような気持ちになれる。日本には、素敵な土地の名前が、名前の通りの素敵な土地が沢山あるのだな、と。知らない、行ったことがないからこそ、余計そう感じた。

 「岬」の言葉の意味と、九州で「岬」の代わりに使われる「鼻」の意味の対比が興味深かった。道の果て・終わりか、道の始まりか。島国だからこそ、そんな意味合いの違いが生まれるのだなと思った。

 本の装丁、イラストもシンプルできれい。一気に読んでしまいましたが、「あとがき」にあるように、「連載時と同じように一日一篇、と読んでくだされば、五十日間は持つ」…2回目はそうやって読みたいです。
 そして、同じく「あとがき」から、旅をしたことのある土地の名がふとした時に「薬効」となる…。旅をした土地の名前が、新聞やニュース、テレビ、小説などに出てくると釘付けになってしまうし、その土地で印象深い出来事があればそれを思い出すたびにまた行きたいなと思う。行ったことのない土地でも、こんな風に書かれていたら、「薬効」を持つのかもしれない。

 旅に出たら、その土地の名前を調べてみよう。自分の今いる場所・身の回りと、旅先が繋がるかもしれない。

・過去関連記事:渡りの足跡

渡りの足跡 (新潮文庫)

梨木 香歩 / 新潮社


 単行本に加筆した文庫版も出ています。
[PR]
by halca-kaukana057 | 2013-07-15 22:05 | 本・読書

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦

 梨木香歩さんの最新作です。タイトルの通り、エストニア紀行エッセイです。でも、ただ「エッセイ」と言い切れないのが梨木さんの著作。

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木香歩/新潮社/2012

 2008年8月から9月、梨木さんはエストニアを訪れる。歴史のある街や、地方の森とそこに生きる人々、そしてコウノトリを探しに(梨木さんの鳥・バードウォッチングに関するエッセイは「渡りの足跡」に詳しく書かれています)。

 エストニア、と言えば、色々と連想する。まず、旧ソ連の支配下にあったバルト三国のひとつ(一番北がエストニア)。フィンランド好きとして、フィンランドのお隣の国。フィンランド語とエストニア語は似ていて、国歌のメロディーも何故か同じ。フィンランドからフェリーで約3時間という近さもあって、フィンランドとはつながりの深い国。IT大国。その一方で首都タリンの町並みは世界遺産にも登録されている。把瑠都関の故郷。クラシック音楽好きなら、指揮者のネーメ・ヤルヴィ、その長男が同じく指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(現在はアメリカ国籍だと、さっき調べて初めて知った)、次男で同じく指揮者のクリスチャン・ヤルヴィ、妹のマーリカ・ヤルヴィもフルート奏者、とヤルヴィ一家もエストニア出身と思い出す人も多いはず。
 でも、エストニアがどんな国なのか、私はよく知らない。梨木さんの言葉でどんな風に書かれているのか、読むのが楽しみだった。でも、何故エストニアなのだろう、と思っていた。

 まず表紙と、中ごろにある旅の写真が美しい。葦と海、町並みや古い建物、自然や風景、旅で出会った人たち。上記した連想したものとは異なる、私の知らないエストニア。梨木さんの旅の過程も、私の知らないエストニアばかり。でも、もし私がエストニアを旅して、その記録を書いたとしてもこの本のようにはならない。梨木さんの目を通して、梨木さんが感じたエストニアの姿だから。物語のように語られる。

 上記したエストニアのイメージの中に、IT国家、とある。タリンの古い街並み、国も小さい一方で、ITに関しては先進国。色々と進んだところがあるのだろうなと思っていた。が、タリンを離れ、南の地方や島へ行くと、自然に溢れている。まさに、ヨーロッパの田舎(いい意味で)。そこに暮らす人々も、古くから伝わる地域の文化・民俗を大切にし、自然の中で生きている。そんな地方で出てくる料理が美味しそうだと読んでいて思った。美味しいパンやきのこ料理が食べたくなる。地方の小高い山の上にある小さなレストランを訪れるのだが、そのシェフやレストランの雰囲気、料理の内容、食材についてを読んでいると、小説「雪と珊瑚と」の珊瑚が営む惣菜カフェを思い出した。もしかすると、このレストランがモデルのひとつになっているのかもしれない。

 梨木さんが何故エストニアを選んだのか。その理由はコウノトリの渡りを見たいというものあった。そのコウノトリだが、自然はめまぐるしく移り変わり、渡り鳥はその動きにとても敏感なのだと感じた。コウノトリだけでなく、様々な鳥も登場する。そして、自然の中で生き物が生きるということ。その中での、人間という存在はどんな存在なのか。言葉を失い、黙り込んでしまう。ただの破壊者に過ぎないのだろうか…。人間が手を加えられないところ…例えば、国家間の緊張が続いている国境付近などは、逆に手付かずの自然と生態系が保たれているという。皮肉なものだ。そして、梨木さんがエストニアを旅したのは2008年だが、2011年の日本…震災後の日本に繋がる部分もある。この点に関しては、様々なことが複雑に絡み合っていて、用意に言葉に出来ない、私は書けない。だが、「自然」という視点だけで考えると…やはり人間はただの破壊者なのだろうか…。
 エストニアは、自然の美しさと、その陰にあるものを感じられる場所でもある。

 シリアスな部分もあるが、滑稽に読める部分もある。古い建物のホテルが「ホーンテッドマンション」そのもので、梨木さんの泊まった部屋には不思議な少女の絵が…。でも、この絵の少女とも「親しく」なろうとする梨木さんの柔軟さに凄い、とも感じる。キノコ採り名人のおばあさん、蛭で治療をする、というおじいさん。朗々と歌い、マウンテンバイクに颯爽と乗るおばあさん。梨木さんを困惑させた少年たちのカヌーガイド。こんな場面でも、相手を許容しようとする、もしくは自分の意思を伝える感じが梨木さんだなぁと思う。
 あと、都会だけ行くと決めている旅行以外には、必ず長靴を持ってゆくという梨木さん。確かに便利そうだ。それに、どうせ観るなら都会だけでなく、自然の中も歩きたい。早起きして、森の中を歩く部分も大好きだ。

 コウノトリの視点から、エストニアの自然が、地球規模の自然に繋がっているという考え方もいいなと思った。エストニア第二の国歌「我が祖国は我が愛」も。タリン合唱祭・「歌の祭典」で必ず歌われる歌。旧ソ連からの独立を支えた歌でもある。どんな歌なのか調べてみたら、こんな歌だった。
エストニア第25回歌の祭典 XXV Laulupidu 2009 "Mu isamaa on minu arm"
 こんなたくさんの人が一緒に歌っていると思うと、凄いと思う。

 歌をじっくり聴きたいなら、CDもあります。
バルト三国の合唱音楽選集 Vol.1 エストニア合唱曲集(1)混声
 北欧諸国は合唱大国として有名だが、エストニアも合唱は盛んな模様。

 静かで、熱いものを感じられる。こんな旅もいいな。

【過去関連記事】
・渡り鳥に関するエッセイ:渡りの足跡
・山の上のレストランがモデルのひとつなのかもという小説:雪と珊瑚と
[PR]
by halca-kaukana057 | 2013-01-20 23:43 | 本・読書

雪と珊瑚と

 久々に梨木香歩さんの小説を。今年春に出た新刊です(今年中なら新刊扱いの私)。


雪と珊瑚と
梨木香歩/ 角川書店(角川グループパブリッシング)/2012

 珊瑚は21歳、8ヶ月になる子どもの雪の母。シングルマザー。生活するために働こうとしているが、雪を預ける先に困っていた。雪との散歩中、珊瑚は住宅街の古びた家に「赤ちゃん、お預かりします」という張り紙が張ってあるのを見つける。その家に住む老婦人・くららと会い、珊瑚はくららと話すうちにここに預けようという気になる。珊瑚と雪はくららの家へ通い、また、くららに様々な料理、食べることについて教わる。一方で、以前勤めていたパン屋に再就職した珊瑚だったが、そのパン屋はもうじき店をたたむとのこと。その後どうするか。パン屋で出会ったアトピー持ちの子どもとその母親との会話、珊瑚と同じアパートに住む助産師の那美との会話、そしてくららの料理…そこから、珊瑚は惣菜カフェを開きたいと思い、動き出す…。

 物語は珊瑚がくららと出会い、くららから教わった料理のことや、自分自身の食の思い出・経験から惣菜カフェを開きたいと動き出し、様々な人々の協力でカフェを開業。自分で店を切り盛りし、雪も成長して行く。カフェも珊瑚も予想もしなかった方向へ動き出す…。という珊瑚と、雪と、珊瑚の店の物語。なのですが、それはあくまでテーマを語るための材料で、本題は物語の中に散りばめられていると思った。
 食べること、母親として生きるということ、育児、シングルマザーの置かれている状況、たくさんの人の中で生きるということ、それに対するひとりで生きるということ、誰かに頼るということ、相性が合わない・嫌い・苦手な人と接すること、自分がどんな立ち位置で生きているかということ…。
 色々な読み方が出来る作品だと思う。どれが一番のテーマなのか。何回も読んでみないとわからない…私はまだそこまで読み込めてない。いや、あえて決めていないのかもしれない。

 ただ、珊瑚の生い立ちは、この作品の幹にあたるものだと思う。母は多くの男性と付き合い父親が誰なのかわからない環境で育ち、母が家にいないことが多かった。食べるものが家に無い。命の危険を感じた珊瑚は、学校のスクールカウンセラーの元へ行く、「家に食べるものが無いんです」と。カウンセラーは、給食の余りなどを分けてくれた。しかし、その後高校に進学したが授業料が払えなくなり、退学。同時に家を出て、パン屋で働き始める。

 珊瑚は母がほとんどいない家で育ち、ひとりでも生きていかなくてはと常に思っている。しかし、完全にひとりでは生きてゆけない。カウンセラーやパン屋の主人と妻、くららや那美。カフェを開く時にも、様々な人の協力が合った。合ったが、自分では納得できないこともある…。私もそんなことを思うことがある。ひとりで生きなくては。親はいつかは死んでしまう。結婚しても、配偶者に頼るというのはどこか納得がいかない。でも、ひとりで生きているということはなく、職場の上司や後輩、友人、様々な人がいて、自分がいる。この矛盾をどう納得のいく形に持ってゆけはいいのか。この物語を読みながら考えたが、まだ答えは出ていない。
 また、この物語では、珊瑚に対して好感を持つ人が多いが、ひとりだけ嫌悪を抱く人が登場する。そんな、嫌悪を抱く人も、自分に何らかの影響を与えているのだろうか。自分のどんなところが嫌いで、それを相手を傷つけたいと思ってストレートに表現してくる。その感情には偽りがない。ある意味、ありがたい存在なのかもしれない。
 そして、珊瑚にとっての母の存在。珊瑚は、離れていた母に向き合い始める。

 震災後、家族はかけがえの無いもの、絆、という言葉や意識が広まった。でも、それがいつも好感の持てるものとは限らない。絆を切りたい、絆じゃなくてしがらみだという関係もある。人とのつながりは複雑だ。その複雑さの中で、どう生きるか。

 終盤、珊瑚が夜の店でひとり料理の下ごしらえをするシーンがある。雪は寝ている。下ごしらえがひと段落して、自分のためにコーヒーを淹れる。そこで、珊瑚はこう思う。
誰かのための、居場所をつくりたい、なんて驕った考えだ。自分がそもそも、そういう場所が欲しかったのだ。
 母でも娘でもない、自分が今、ここにいる。
(314~315ページより)

 自分の居場所…慎重に扱わねばならない表現だと思う。下手に使うと安っぽい、便利に使える表現になる。でも、それを本気で欲している人もいる。ここの、「母でも娘でもない」に、うんうんと頷いた。人の中で暮らしていると、自分には何かしらの「肩書き」が付く。上司に対しては部下、後輩に対しては先輩、友達と会えば友達、家族といれば家族。話はそれるが、NHK教育「ピタゴラスイッチ」で「ぼくのおとうさん」という歌があるのだが、「お父さん」も場所によって違ってくる。会社にいれば課長さん、お店に入ればお客さん、歩いていると通行人、電車に乗ると通勤客、病院に行けば患者さん、そして家に帰ってくるとぼくのお父さん。というように。そして、自分には名前がある。本名もあるし、このブログにいれば「遼」というハンドルネームがある。時々、その名前すらも必要としない、ただ人間としての自分でいたい…と思うことがある。この時、本当にひとりになれるのだろうかなどと考えつつ。


 もうひとつ、この物語の幹は、食べること。くららの料理、その料理に使われる食材はとても豊かだ。私は料理が苦手、今日の夕飯をどうしよう…それを考えるのも嫌になるほど、料理が苦手だ。でも、食べないといけない。こう思うと、食べることが強制的なもの、辛いものに思えてしまう。くららや、くららから料理を教わってカフェで様々な料理を作る珊瑚のように、黙々と、でも楽しく料理して、食べることを大事にできたらいいなと思う。食べることは大事にしたい。活動するエネルギーであり、生きることそのものだから。家に食べるものが無くて困り果てていた子ども時代の珊瑚も、くららに料理を教わった大人になった珊瑚も、食べることで強く生きようとしている。ここで、悩んでいる人を招き悩みを聞き、手作りの料理を食べてその人が生きるのを支えようとしている「森のイスキア」の佐藤初女さんを思い浮かべた。くららは元修道女。キリスト教の信仰の話も出てくる。佐藤さんもクリスチャン。どこか似ている気がする。

・佐藤初女さんのことに関する記事
食べること、料理すること、生きること
おむすびの祈り 「森のイスキア」こころの歳時記


 そういえば、この作品、梨木さんの小説で一切ファンタジー要素が出てこなかった作品かな?前作「僕は、そして僕たちはどう生きるか」もファンタジー要素は少なめだったが、ファンタジーのような謎の存在や、ユージンの家はファンタジーのようだった。今回は、珊瑚がカフェを作った場所はちょっとファンタジーっぽいが、ファンタジーではない。ひとりの作家の作風がこんな風に変わってゆくのは面白い。

・前作:僕は、そして僕たちはどう生きるか
・この作品に関連して体験したこと、思ったこと:「痛い」と表現すること

 最後に、梨木さんの最新刊。エストニア紀行エッセイ。エストニアとはまた惹かれる。読む。読みたい。

エストニア紀行: ――森の苔・庭の木漏れ日・海の葦

梨木 香歩 / 新潮社


[PR]
by halca-kaukana057 | 2012-11-09 23:23 | 本・読書

「痛い」と表現すること

 先日読んだ、梨木香歩「僕は、そして僕たちはどう生きるか」で、自分の経験に関連があって印象に残っている箇所がある。そこから、ちょっと考えてみようと思う。

 物語の最後のほう(でも、物語の根幹の流れには触れませんので、ネタバレさせません)で、コペル・ユージン・ノボちゃん・ショウコ、そしてショウコの友人のオーストラリア人のマークはユージンの家の庭で焚き火をして話をしている。その話の中で、「人から妨害を受けたり、傷つけられたり」することについて語る箇所がある。もし、誰かにそうされたら…マークは「足を踏まれたら、痛いって言えばいい。踏んでる方はそのことに気づいていないかもしれない」と。ショウコもそれに同意するが、一方でユージンは「黙って踏ませとくよ。めんどうだし」と言う。それに対してのショウコの言葉に、どきりとしました。以下引用します。
 「黙ってた方が、何か、プライドが保てる気がするんだ。こんなことに傷ついてない、なんとも思っていないっていう方が、人間の器が大きいような気がするんだ。でも、それは違う。大事なことがとりこぼされていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだってことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。あんたが踏んでんのは私の足で、痛いんだ、早く外してくれ、って言わなきゃ」
(254~255ページより)

 続けて、「言っても外してくれなかったら?」の問いには
「怒る。怒るべきときを逸したらだめだ。無視されてもいいから怒ってみせる。じゃないと、相手は同じことをずっと繰り返す」
(255ページ)

 私もユージンと同じように、「黙って踏ませとく」、踏ませておけばいいと思っている。別に踏まれても痛くなんかない。傷ついていない。このくらい、我慢する。気にしない。そう思ってきた。

 先日も、そんなことがあった。職場で雑談していた時のこと。私の好きなものに関する話になった。私はそれを「好き」と言ったことはなかったし、その時もまだ言ってはいなかった。その時、相手はその私が好きなものに対して、「嫌い、受け付けない」と言った。えっ?私は驚いた。思わず「えーっ」と茶化した声で反応したが、心臓はドキドキバクバク。頭は混乱し始めた。かなしい気持ちがじわじわと溢れてきた。私の心の中は大混乱していたが、相手は私に聞いた。「好きですか?」と。私は、動揺を見抜かれないように「好きですよ」とだけ、さらりと答えた。それ以上の話はしないように努めた(でも相手がそれに関することを色々話すので、軽く答えてはいた)。それ以上話をしたら、この動揺が、ボロがでてしまうだろうから。

 別に、その時の話し相手に、それを好きになって欲しいとは思わない。人それぞれ好き嫌いはある。自分の好きという気持ちを強要する気は全くない。その相手とは職場だけでの関係でもあるから、深入りする必要はない。でも、相手は私がそれを好きだと知らなかったが、面と向かってストレートに「嫌い」と言われたら、どうしても動揺してしまう。その日はとにかく早く仕事が終わってほしい、早く帰りたい、ひとりになりたい…そんな気持ちでいた。

 帰宅してから、そのことをtwitterに書き込んでいたりしていたら、何年も前のことを思い出した。大学に入学した頃の話だ。私は、ある人と友達になった。同じサークルに入った、という縁だ。その人はとても快活で、年上同い年関係なく初対面の人とも臆せず話し、すぐに場に馴染んでいた。私はそれまで、そういうタイプの人と友達になったことはなかった。同じクラスにいても、距離を置いていた。それが同じサークルに入ったことで、友達になった。いや、この時はまだ”友達”と捉えていなかった。

 ある日、私とその人で話をしていて、その人が大好きだと言うものの話になった。私はそれがあまり好きではなかったので「あまり好きじゃない、嫌い」と言った。するとその人は怒った。「人の好きなものに対して、面と向かって嫌いって言うのはどうかと思う」。私はその時、自分の思ったこと、事実を言ったまでなんだけど、何故怒られなきゃならないんだ…。その人だって、普段は何でもストレートに話しているのに…。この人、よくわからない。私は不機嫌だった。でも、それから、私はとても時間がかかったが、本音を言い合うようになり、”友達”と呼べる…いや、”親友”とも呼べる仲になった。今も、交友は続いている。私にはない長所をたくさん持っていて、いい刺激を受けている。その人との友情が続いていることに感謝している。

 何かを好き(もしくは嫌い)であること、そしてそれを表現することは、その人の個性でもある。自分とは別の存在だけれども、好きなものは自分の一部のように感じている。例えば、人ならその人が病気になったら心配で、早く治って欲しい、元気になって欲しいと思う。その人が嬉しいなら、私も嬉しくなる。そして、その人が否定されたら、かなしくなる。自分も否定されたように思ってしまう。そう、職場で私の好きなものを「嫌い、受け付けない」と言われた時、私は自分を否定された気持ちにもなった。だから、酷く動揺し、かなしくなった。

 あの日、大学で出会った友達は、私の発言をダメだと怒ってくれた。「僕は~」のショウコのように、足を私に踏まれて、痛いと言った。踏んだら痛いだろう、「嫌い」と面と向かって言ったら傷つくだろう、と。

 そのことを思い出して、私は、傷ついたことを隠そうとしたことは、それでよかったのだろうかと考えている。自分がそれを「好き」だと熱弁はしなくてもいいから、「私は好きですよ。知らなかったから仕方ないですけど、人に面と向かって”嫌い、受け付けない”と言うことは、どうかと思いますよ」と言うべきだったのだろうか。私に、その勇気はない。動揺しながら、そんなことは言えない。それよりも、「怒るべきときを逸してしまった」のだから、もうどうしようもないのだが。そして、大学時代からの友達の、勇気は物凄いものだったと今になって、実感した。

 今度、また同じような場面に出くわしたら…言えるだろうか。痛い、と。

・過去記事:僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

梨木 香歩 / 理論社


[PR]
by halca-kaukana057 | 2011-11-28 23:01 | 日常/考えたこと

僕は、そして僕たちはどう生きるか

 梨木香歩さんの作品は、出てからしばらくしてから読むことが多いのですが、この本は今年出たばかり。気になっていた(梨木さんの作品は全部気になりますが)ので、早速(というわけでもないですが)読みました。


僕は、そして僕たちはどう生きるか
梨木香歩/理論社/2011

 いつもならここであらすじを書くのですが、書けません。まとめようがありません…。植物や虫、生き物に興味があり土壌採集をしている14歳の少年の僕。「コペル」と呼ばれている。「ブラキ氏」という愛称の犬を飼っている。コペルの叔父で染織家のノボちゃん。コペルの友人で、小学6年から学校に来なくなったユージン。ユージンの従妹でひとつ年上のショウコ。ノボちゃんが染織のためのヨモギを採るために、コペルとノボちゃんはユージンの家の庭にやってきた。ユージンの家の庭はとても広く、様々な植物が生い茂っている。庭と言うよりも森。その庭で、コペルとユージンはショウコが来たことがきっかけであるものと出会う。そして4人は様々なものに思いを巡らし、考える。


 タイトルは哲学のよう。物語は、自然豊かな庭で、4人が植物に触れながら、様々なことに思いを巡らす。そして、あるものに出会う…。14歳でそれぞれの家庭の事情でひとりで暮らし、賢くもあるコペルとユージン。自然豊かなユージンの庭、染織家の叔父さんという設定に、「西の魔女が死んだ」・「からくりからくさ」か、もしくは川端裕人さんの作品の雰囲気かと(某所のレビューを読んだら、同じことを思った人がいて驚きました!)。物語は淡々と、でも何か強いメッセージが込められているのは読み取れるけど、核心がなかなか出てこない。一体どこに向かうのだろう…と思っていたら、ショウコの登場で出会うことになったあるものが更に強いメッセージを発してくる。そのものや、コペルとユージンの過去が語られ、物語の核心が。それまでばらばらに見えていた、物語のエピソード・要素の数々が最後に「ここに辿りつくのか!」と息をのみながら読み、最後の1ページで涙が止まりませんでした。

 この作品では、デリケートな話題・問題にも直球ストレートで踏み込んでいる。普段、私はこの作品に書かれているような話題・問題を語るのは避けている。語った相手や場所、内容で、場が大混乱になるのを恐れているからだ。自分の考えをはっきりと主張する自信もない。なので、書かれている内容を読んだ時はどきどきした。私の苦手なところへ、どんどん踏み込んでいく。どうしようと思いつつ、でも読むのを止められなかった。きっと、この作品の根底にある”考える”ことを、対象は何であれやめたくない、停止したくないと思ったからだろう。あと、あるものが何なのかや、4人が語ることも、気になって。

 作品全体からも、個々のエピソードやセリフからも、様々なことを読み取れる。読み取れるだけじゃない。梨木さんは、「考えてみよう」「行動してみよう」と読み手にそっと伝えようとしているのだろう。私は、時にユージンやあるもののようになってしまうが、全体的にはコペルに近い。コペルが、「カッコに括っていたもの」に気づいた時、自分も同じようなことを経験した覚えがある…といろいろと思い出してしまった。でも、そこで落ち込んでばかりもいられない。「考えてみよう」「行動してみよう」と声がする。自分の力で。でも、ひとりではない。

 今日一気読みしたのですが、何度でも読み返したい。難解なところも多いので、読み返したらまた考えることもあるだろう。また、作品全体だけでなく、個々に気になったところを抜き出して考えたい。既に考えていることがあるので、そのうち記事にすると思います。

 そういえば、タイトルと、コペルに見覚えがある…と思ったら、巻末の参考文献に「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎/岩波書店)が。これでした。ちゃんと読んだことが無いので、この際だし読もう(また読む本が増えました…嬉しい悲鳴?)。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

吉野 源三郎 / 岩波書店



 ポプラ社から、ジュニア版も出てます。

君たちはどう生きるか (ジュニア版 吉野源三郎全集)

吉野 源三郎 / ポプラ社


君たちはどう生きるか (ポプラポケット文庫 日本の名作)

吉野源三郎 / ポプラ社


[PR]
by halca-kaukana057 | 2011-11-18 22:29 | 本・読書

マジョモリ

 先日、梨木香歩さんの絵本「ペンキや」を読み、取り上げましたが、もうひとつ梨木さんの絵本を読みました。
・前回:ペンキや

マジョモリ
梨木香歩:作/早川 司寿乃(はやかわ・しずの):絵/理論社/2003

 少女・つばきにある朝届いた招待状。「まじょもりへ ごしょうたい」を書かれてある。さらに、手紙を手に取って読んでいると、空色の植物のつるが窓をコンコンとたたいている。つるを追いかけて、つばきは「まじょもり」と呼ばれている”御陵”へ足を踏み入れる。「まじょもり」の奥へ歩いて行ったつばきは、不思議な女の人と出会う。その女の人が一緒にお茶を飲もうとお菓子を差し出すが…。

 梨木さんの作品は、不思議なものが存在することが多いです。でも、それらは全て私たちの生活している日常の世界と繋がっていて、そのどこかに不思議なものが当たり前のように存在している。ただ、気がつかないだけで。「りかさん」、「家守綺譚」や「村田エフェンディ滞土録」、「沼地のある森を抜けて」「f植物園の巣穴」などなど。不思議なものも、日常の一部。不思議なものがある不思議な世界に、登場人物たちは(戸惑いつつも)さらりと入っていってしまい、読み手を迎え入れてしまう。この「マジョモリ」もそんな作品だと感じました。つばきの家のそばにある「まじょもり」と呼ばれる”御陵”。普段は入ってはいけないと大人に言われているのに、招待状が届いた。神聖で畏れ多い場所だとつばきは知っている。でも、つばきは(勇気を出して)ひょいと「まじょもり」の奥へ入ってゆく。ワクワクする冒険のようで、畏れ多い土地へ足を踏み入れる緊張感、神聖な森の静けさをも感じます。

 「まじょもり」で出会った、つばきを招待した不思議な女の人。そして、お茶のお菓子を巡って、つばきの母、ふたばという女の子も交えて物語は進んでゆく。ひとつの場所で、違う時間が混じりあう。子どもの頃、大人になった自分を想像していたように(それは想像したものとかけ離れてしまったが…)、大人になると子どもの頃を思い出し、思い浮かべる時がある。子どもの頃、誰と何の遊びをしていたか。どんな場所が好きだったか。誰に会うのが楽しみだったか。それらの思い出が再び形になって、つばきの前に現れる。「まじょもり」でつばきがふたばという女の子に出会ったが、もし私がつばきなら…同じように会ってみたいなと思った。その人は、子どもの頃、どんな子だったのだろう。会うなら、私も子どもに戻って。つばきとふたばのように、意見が合わないかもしれないですが。

 「まじょもり」が繋いだ、かけ離れた時間と人、それぞれの想い。柔らかな絵が、”御陵”や”畏れ”という難しい言葉・概念を優しく包んで届けてくれるように感じました。ということで、「ペンキや」と同じく、絵本ですが「絵本=こども(幼児~小学校低学年)むけ=平易な物語と絵による本」ではありません。ひとりでじっくり味わいたい、味わって欲しい作品です。
[PR]
by halca-kaukana057 | 2011-11-13 22:18 | 本・読書

ペンキや

 秋になって、心が静寂に向かうような本が読みたいと思うようになりました。ワクワクする本、面白くてどんどん読んでしまう本もいいけど、心も頭の中も鎮まり、落ち着く本が読みたい。図書館をうろうろしていたら、梨木香歩さんの絵本を発見。これまで、梨木香歩さんの著書は小説やエッセイは読んできましたが、絵本は読んだことが無かった。梨木さんの作品は、心が静寂へ向かうような、落ち着く文体・内容のものが多い。では、読んでみよう。

ペンキや
梨木香歩:作/出久根 育:絵/理論社/2002

 塗装店でペンキや見習いとして働くしんや。お客さんの依頼を聞いて、色を作り、ペンキを塗る。簡単そうで、結構難しい。色の名前を聞いてその色を作って塗っても、仕事を頼んだお客さんがイメージしていた色と微妙に異なることが多い。そんな繊細な仕事に就いたのは、同じくペンキやだった父の影響もあるかもしれない。しんやの父は、しんやの母のお腹の中にしんやがいることを知らないまま仕事でフランスへ行き、フランスでしんや会わないまま死んでしまった。しんやは、ペンキ塗りの仕事で悩むうちに父の墓を訪ねたいと思い、フランスへ向かった。その船の中で、しんやは様々な色、そして不思議な女の人と出会う。


 絵本=こども(幼児~小学校低学年)むけ=平易な物語と絵による本、というイメージを”絵本”に持っていたら、この本は異色に感じるでしょう。実際、かつてこどもたちに読み聞かせをしていた立場から言うと、”読み聞かせには向かない本”です。でも、文字ばっかりの本はハードルが高いけど、いわゆる”一般的な絵本”とは違う絵本を読みたい子にはおすすめしたい本です。読み聞かせではなく、自分ひとりでじっくり読んでほしい。物語そのものもですが、絵もじっくりと味わってほしい。梨木さんが通常の本ではなく、絵本としてこの作品を書いたことの意味が、絵にあると感じました。違う言い方をするなら…絵本という、芸術を味わうのがこの作品なのかな。

 序盤、しんやはお客の依頼・イメージどおりの色を作れず、苦しみます。その時の親方の言葉が、いいな、わかるなぁと感じました。
「たとえばブルーグレイと
ひとことでいったって
そう呼べる色合いは数限りなくある
お客様が本当に好きな色を感じとるのさ
感じとったらそれをペンキで表すんだ」

 子どもの頃も、今も、絵を描く時色を作るのが好きでした。絵の具を混ぜて、絵の具チューブにはない色を作る。また、「はだいろ」がチューブにはなく、赤と黄色と白を混ぜれば「はだいろ」になると教わったのですが、調合の加減でいろいろな「はだいろ」ができる。赤と黄色と白だけでなく、茶色や黄土色も混ぜてみたり。何かを描き色を塗る時、目の前にあるものの色が全て絵の具チューブにあるわけではない。あるわけがない。目の前にあるものがどんな色をしているのか、絵の具を混ぜながらその色を作り、塗っていくのが楽しくて(あと、ささやかなものですが描いた絵が賞をいただいたこともあって)、絵を描くのが好きになり、今に至ります。今は色鉛筆ですが、やはり欲しい色は色鉛筆のセットには無い。混ぜて、塗り重ねて、欲しい色、表現したい色を出すのが好きです。

 しかし、しんやはペンキ塗りを仕事とするプロ。お客の依頼にこたえなければならない。その難しさと同時に、母が見た父の仕事について語られます。そして、父の足跡を追ってフランスに向かったしんや。船で出会った謎の女の人が依頼した「ユトリロの白」という色。フランスで父のことを知る人が話してくれた父のこと、父の仕事のこと、そして、「ユトリロの白」の手がかり。帰国後、しんやのペンキ塗りの仕事は一変します。

 自然の色であれ、人の手によって作られた色であれ、色は不思議なものだと思う。人を落ち着かせたり、幸せにさせたり、不快にさせたり。ものや人に会うと、特定の色をイメージすることもある。色と言っても、グラデーションだったり、所々ムラのようになっているものもある。その微妙な色合いを表現し始めたしんや。色合いの表現が繊細になればなるほど、人間は深みを増していくのだろう。

 そして、たどり着いた「ユトリロの白」。作品の中で謎の女の人が「ユトリロの白」について語っていますが、その表現が凄く好きだなと感じました。”何色”とはっきり言い切れない。色々混じって、塗り重ねられて、変化してゆく。生きること・生きてゆくことをそのまま表現したかのような色。色は、それをも表現できたんだ。

 言葉だけでは表現できないものを、絵本=絵もある物語なら表現できる。絵本の表現の幅も、作家さんによって変えることができる。そう実感した本でした。

 ちなみに、モーリス・ユトリロは、近代フランスの画家。「白の時代」と呼ばれる時期の作品が、ユトリロの絶頂期と言われているそうです。検索して作品の画像を観たのですが、「白の時代」の作品は、まさに「ユトリロの白」そのものだなと感じました。
wikipedia:モーリス・ユトリロ
[PR]
by halca-kaukana057 | 2011-10-25 22:45 | 本・読書

f植物園の巣穴

 梨木香歩さんの作品です。雑誌に連載されたのが2006年~2008年。単行本として出版されたのが2009年。少し前の小説です。


f植物園の巣穴
梨木香歩/朝日新聞出版/2009

 植物園の園丁である”私”(佐田豊彦)は、f郷にある”f植物園”に転任してきた。”私”は結婚していたが妻・千代を若くして亡くし、f郷では下宿で暮らしている。”私”は以前から歯痛に悩まされていたが放置したままで、とうとう歯医者に行くことを決めた。そして歯医者へ行く日から、"私"の周囲、f郷で不思議なことが起こっていることに気づく…。

 先日読んだ「ピスタチオ」と同じく、あらすじを書くのに苦労します。この後、物語はまったく不思議としか言いようが無い、どう説明したらいいかわからない展開になります。この作品を、以前何度か読んでいたのですが、奇妙な世界で起こる不思議な物語を読むのに時間がかかり、図書館の返却期限が来てしまい返却。そんなことを繰り返し、ようやく読了、この物語の世界をじっくりと味わうことが出来ました。読み終えて、難解だけれども、深いものを包んでいる物語だなぁと嬉しくなりました。

 この世界には、様々な”境界”というものが存在する。しかし、その”境界”が曖昧になったら、どうなるだろうか。土地と土地。始まりと終わり。過去と現在。他者と自分、誰かと誰か。現実と夢。この世とあの世。現世と前世。普段、私たちはこれらに”境界”を作って暮らし、生きている。でも、例えば、過去と現在の場合、どこからどこまでが過去で、どこからが現在なのだろうか。今、この記事を書いているのが現在?数秒前、「今」と入力した時点がもう過去である。時間は連続していて、どこからどこまでが過去なのか現在なのか、はっきりとは断定できなくもある。植物も、この植物はこんな場所・地形・気候のところに生息する、と事典などに書いてあっても、実際は当てはまらないこともある。意外なところに、意外な植物が根を下ろしていることもある。

 そんな、あるはずの”境界”をなくしてしまったのが、この作品だと思います。”境界”は誰が作ったのか、何のためにあるのか。どことどこの間に”境界”線を引けばいいのか…。そんなことを考えていると、もうそんな”境界”なんて取っ払ってしまいたい気持ちになります。物事を分離、区別している”境界”。そんな”境界”なんてない、と思えば、もっと広々とこの世界を眺め、人や物事に対して柔軟に向き合えるはず。混沌とした物語の中で、そんなことを思いました。

 ”私”は、f郷の不思議な世界に戸惑い、翻弄されながらも、徐々に形が見えてくることに向き合い始めます。”私”が子どもだった頃の思い出。亡き妻・千代との思い出。しかも、千代は身ごもって命を落とした。会うことの出来なかった新しい命・自分の子どものこと。それらを象徴するかのような、病んだ歯の穴と、植物園内にある樹のうろ。2つの”穴”から、曖昧だったものが少しずつ輪郭を帯びてきます。

 ”私”が物語の随所で、子どもの頃のねえやだった千代とのことと、妻の千代(名前は同じだが別人)のことを思い出します。どちらにも、”私”にとってはあまり触れたくないこともある。”私”は、思い出に”境界”線を引いて、”過去”として扱っていたのではないかと思います。”過去”としてしまえば、現在の自分から切り離すことが出来る。しかし、先述した通り、時間は連続していて、過去と現在、と簡単に分けることができない。確かに過去ではあるけれども、現在の自分に全く関係がない、とは言えない。”過去”というこれまで生きてきた時間とそこでの経験があるからこそ、現在の自分に繋がっている。それを無理に分離しようとしても、後で心には痛みやしこり、”穴”が残るだろう。この物語では”穴”として、”私”が”坊”と呼ぶことにした存在と、過去に向き合う旅に出ます。これまで見て見ぬ振りをしてきた病んだ歯の”穴”=”過去”。旅路の終わりは、まさかの展開でした。

 私自身、どう向き合ったらいいのかわからない”過去”があります。多分、誰にでもあると思う。この物語を読みながら、私も”境界”を作って”あの過去”を自分から切り離そうとしていたんだな…と気づかされました。”境界”は、物事を仕切り物事をはっきり区別するものでもあると思うけど、逆にはっきりさせる一方で見えなくなってしまったもの・ぼやけてしまったものもあるのではないかと思う。私自身の過去への”境界”を取り払う日も、いつか来るはず。この物語のように劇的ではなくても、現在も徐々に向き合っているかもしれない。その時は、無理にあがかず、流れに任せてみようと思う。”私(佐田)”が、この物語でそうしたように。

 ”私”が”坊”と旅を続けている途中、”坊”に言ったことが印象に残ったので、引用しておきます。
迂回というのは前方に進むに困難なものがある場合、それを避けて回り道をすることだ。遠回りのようにも思えるが、自分の力相応の道を選んで結局は目的の場所へ到達することを思えば、この方が理にかなった進み方なのだ。
(149ページより)

 後に、”私”は迂回しない道を進む。その時が来れば、正面から向き合う。このあたりを読んでいて、凛とした気持ちになりました。

・先日読んだ梨木作品:ピスタチオ
[PR]
by halca-kaukana057 | 2011-07-12 17:07 | 本・読書


好奇心のまま「面白い!」と思ったことに突っ込むブログ。興味の対象が無駄に広いのは仕様です。


by 遼 (はるか)

プロフィールを見る

S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28

お知らせ・別サイト

管理人HN:(はるか)
 熱しやすく冷めにくい、何が好きになるかわからない好奇心のかたまり。このブログでは好きなものを、好き放題に語ってます。

プロフィール
*2014.9.5:更新
はてなプロフィール:遼(halca-kaukana)



web拍手を送る



はてなブックマーク
Mielenkiintoinen!

気になること、関心のある記事や参考にしたサイトなどのブックマーク集。コメント多め。

◆ピアノ録音置きブログ:Satellite HALCA

☆「はやぶさ2」、小惑星リュウグウ目指して順調に飛行中!☆
管理人・遼も小惑星探査機「はやぶさ2」を応援しています。



あかつき特設サイト
JAXA:金星探査機「あかつき」特設サイト

☆祝!「あかつき」は金星の衛星になりました☆
金星軌道上で観測中!

最新の記事

ヴィンランド・サガ 20
at 2018-02-18 15:53
天体シリーズ切手第1集 手押..
at 2018-02-10 22:22
野尻抱影 星は周る
at 2018-02-03 22:32
【2018.1.31】 吹雪..
at 2018-02-01 22:30
【2018.1.31】 皆既..
at 2018-01-30 22:48
オンネリとアンネリのふゆ
at 2018-01-22 22:35
ムーミン切手再び +特印 (..
at 2018-01-17 22:01
カリスマ解説員の楽しい星空入門
at 2018-01-16 22:18
イギリスだより カレル・チャ..
at 2018-01-10 22:26
ムーミン切手再び +特印 (..
at 2018-01-10 21:16

カテゴリ

はじめにお読みください
プロフィール
本・読書
宇宙・天文
音楽
奏でること・うたうこと
Eテレ・NHK教育テレビ
フィンランド・Suomi/北欧
イラスト・落描き
日常/考えたこと
興味を持ったものいろいろ
旅・お出かけ
information

タグ

以前の記事

2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
more...

検索