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泣きたい日のぼのぼの

 先日、ニコニコ生放送でアニメ「ぼのぼの」全48話を2日に分けて放送していました。アニメ「ぼのぼの」を全話観たことが無かったので観てました。全話は観られませんでしたが、楽しかった。面白かった。とにかく笑ってました。「ぼのぼの」は原作漫画もアニメも面白い。ジャイアンみたいなアライグマくん。時に腹黒くなるシマリスくん。弟のシマリスくんをいじめるアライグマくんとケンカばかりだけど、実は気が合う(?)ショーねえちゃん。ぼのぼのものんびりしているけど、時に鋭い。37話「洞くつの恐怖」…あの”しまっちゃうおじさん”回は、ニコニコ動画のコメントを打ちながら、皆で観るのが楽しいんだなぁと思いながら満喫しました。他の回にもちょこちょことしまっちゃうおじさんは登場していました。

 驚いたのは、「ぼのぼの」の世界には天文学に基づいた暦があるということ!第32話「アライグマくんの誕生日」。何故アライグマくんが自分の誕生日をわかるのか。そう疑問に思っていたら、アライグマくんの説明が。目印の木と赤い星があって、一年に一度その木の上に赤い星が来ると誕生日…星の年周運動を理解していたアライグマくん…!!凄い。…ということは、「ぼのぼの」の世界はこの地球上のどこかにあるということか…?(待てw)
 34話「流れ星さんのお引っ越し」では、流星群は流れ星のお引越しなのだそう。こちらはファンタジー。しかし、満月の夜…満月だと流星群観測には条件悪くないですかとツッコんでたのは私ですw「ぼのぼの」の世界では光害なんてないから、満天の星空を堪能できるんだろうなぁ。いいなぁ、ぼのぼのたちと星見・天体観測したい…そっちじゃないw話が大幅にずれました。

 以前、「ぼのぼの」の名言集が出ていましたが、その続編が出てました。こういうタイトルのものはあまり好きではないのですが、本屋で目にした時、まさにそんな気持ちだったのと、「ぼのぼの」は別、と思って手にとってしまいました。
・以前の記事:ぼのぼの名言集(上・下)

泣きたい日のぼのぼの
いがらし みきお/竹書房・竹書房新書/2014

 「ぼのぼの」はいわゆる「泣ける」作品・漫画ではないと思う。ホロリとさせられる部分はある。しかし、ぼのぼのたちの哲学的な思索(妄想)で、ふんわりと終わる。そして物語が「開かれている」状態で、読後の読者に繋げる、バトンを渡すような。「こう思うこと、あるなぁ」とか、「自分ならこう思うかなぁ」と、続きを読むのを一旦止めて、ふっと考えてみる。そんな速さ、ゆとりで楽しめるのが「ぼのぼの」の面白いところ。

 この本には、6つのお話がおさめられています。上記「名言集」と被るところもあります。好きなのは「ボクの景色」「冬が来る」「ウマちゃん」。「ウマちゃん」はいつもは暴れん坊なアライグマくんが、”ウマちゃん”という虫をペットにする。最後のアライグマくんは、”いい奴”の一言では片付けられないような味わいを出している。「ボクの風景」はぼのぼのの哲学的思索全開。途中、シマリスくんとのギャグを効かせつつも、どこか遠く、一生かかっても手の届かないところを思う…それが生きるってこと、生きる面白さ、なのかなぁ、と。

 「シマリスくんのクノー」は、重い。ぼのぼのやシマリスくんたちは成長している。そして、シマリスくんの両親も齢を取り、シマリスくんが”介護”する。「治してあげたい」234・235ページでグッと来てしまった。
 こういう漫画では、物語の世界のキャラクターたちは齢をとらない、年月は進まないものもある。でも、「ぼのぼの」の世界では、進んでいる。見た目は変わらないように見えるけど、心は成長している。そんな「ぼのぼの」をちゃんと読みたいと思いました。単行本、20巻ぐらいまで読んで、そこで止まっているので…。

 泣きたい日に、泣かせてくれる…かどうかはわからない。が、ぼのぼのたちも私たちと同じように生きて、悩んで、笑って、怒って、遊んで、泣いて…そんな身近さがいいなと思うのです。「ぼのぼの」の森の仲間たちも、泣いて、思い悩んでる…一緒だよ、一緒に生きているんだよ。そんな風に感じます。
 泣きたい時、ギャグで大笑いして吹き飛ばす、という方法もありますね。それが出来るのも「ぼのぼの」です。

 巻末の書き下ろしの詩は、まさに泣きたい時向けだと思います。じんわり来ます。


癒されたい日のぼのぼの (竹書房新書)

いがらし みきお / 竹書房


 癒されたい時バージョンもあります。こっちは読んでない。こっちも読んでみようかな。それよりも本編全巻読んだほうがいいかな。
by halca-kaukana057 | 2014-08-24 22:47 | 本・読書
 かなり前に、光野桃さんのエッセイ「可愛らしさの匂い」を読みました。久しぶりに、光野さんの著書をまた読みました。
・過去記事:可愛らしさの匂い


あなたは欠けた月ではない
光野桃/文化出版局/2011

 以前読んだ「可愛らしさの匂い」やその前に読んだ「実りを待つ季節」でも、光野さんはファッション誌編集者を経て、イタリア・ミラノへ移住。その経験を活かして、ファッションや女性の生き方に関するエッセイなどを執筆している。あたたかな文章で、今回もその文章に惹かれた。ただ、おしゃれや生き方に対して詳しく、洗練されたセンスをお持ちの方なんだろうなと勝手に思ってきた。この本を読んで、違うと感じた。

 この本では、おしゃれや生き方に関するエッセイもありますが、光野さんがご自身のこれまでを振り返り、書いています。それは、想像以上につらいものだった。子どもの頃から、人間関係・交友関係に悩み、自己評価も他者からの評価も低かった。光野さんがご自身の性格を分析した文章に、私もだ…とうなづいてしまった。この後、私の場合「だから私はダメなんだ」と続く。
 一方の光野さんは、ファッション誌に魅了され、編集者になることを志す。その夢を叶え、仕事に邁進し成功もおさめる。だが、自己評価は低いまま。「みんなとおんなじ」、そして「女性ならこうでなければならない」という暗黙の価値観に心を痛めていた。その後、思い切って結婚し、子どもも生まれる。そして、仕事一筋人間だった光野さんが、「ファミリーガール」として仕事を辞め、夫の転勤でミラノへ移住する。ミラノでの生活は、光野さんにとってショックの連続だった。ミラノの女性たちは、どの年齢の人も、女性であることに自信をもっている。おしゃれも似合うものを楽しんでいる。光野さんはそんなミラノの女性たちと比べては劣等感を抱いていたが、その姿を観察し、それが帰国後の執筆活動に繋がってゆく。帰国後も、お子さんの事故や、光野さんご自身の年齢など、苦労は絶えない。だが、年齢を重ねるごとに、だんだん自由になってきたという。

 年齢を重ねるのは怖い。年相応の生き方をしているか、自信が全く無い。キャリアも無い。それは、私だけの悩みではないようだ。ファッションの面では、顔立ち、体形、様々なコンプレックスを隠すように、目立たないようにものを着る。しかし、隠すことばかりでは、更に自信を失ってしまう。自分を輝かせてくれる装いに出会った時、人は外見も、内面も輝く。自信を持てる。それは、年齢とは関係ない。光野さんの言葉があたたかい。

 また、時代・社会の中での女性の立場に関しては、鋭い視点でこう書いている。
 婚活という言葉も、結婚をひとつのシステムとして捉えすぎてしまうのではないか、と危惧していた。仕事のキャリアや成功と同じように、結婚や出産を人生のキャリアアップの一環と考えるひとが増えてしまうのではないか、と。(23ページ)

 結婚や出産が、人生で勝ち取るべきものの一環として考えられているように感じる(24ページ)

 その通りだと思った。(最近の時事問題に当てはまると感じた。狙ったわけではない。何とリアルタイムな)

 この本を手にとって、パラパラと読んでいて、作曲家・ロベルト・シューマンについて書かれているのを見つけた。光野さんがシューマンについて、何を書いているのか気になり、この本を読むきっかけになった。ポーランド人ピアニストのピョートル・アンデルシェフスキさんのインタビューからの内容だった。シューマンの美しさと失敗。
 ピョートルさんは語る。
「今日の世界でわたしたちが必要としているのは、醜く成功するよりも、失敗と美なのではないでしょうか」
 成功するために醜く生きるより、美しく生きて失敗してもいい。
 美しくとは、自らを信じ、あきらめず果敢に挑戦し、常にその過程にいることだろう。結果ではなく、過程に意味を見出して生きることができたら、わたしたちはもっとずっと充足し、豊かでいられるはずだ。
(111ページ)

 私がシューマンの音楽に惹かれる理由が、わかったような気がする。シューマンを聴きたくなった。ピアノ曲や歌曲も美しくていいが、特に、オーケストレーションに文句をつけられがちな交響曲を。

 この本のタイトル「欠けた月ではない」。月は満ち欠けをするが、実際に欠けているわけではない。地球と月と太陽の位置関係、光の当たり方でどう見えるかだ。照らされず見えなくても、無いわけじゃない。暗闇で失敗しても、私はここに存在している。それを認めて、信じられるようになれたら…。やっぱりシューマンが聴きたい。
by halca-kaukana057 | 2014-06-24 22:26 | 本・読書

物語ること、生きること

 「守り人」シリーズ、「獣の奏者」シリーズでお馴染みの上橋菜穂子さんのエッセイが出ました。


物語ること、生きること
上橋菜穂子/瀧 晴巳:構成・文/講談社/2013

 上橋菜穂子さんの元には、子どもたちから沢山の手紙が届くという。「どうやったら物語を書けるようになりますか」「どうやったら作家になれますか」「『獣の奏者』や『精霊の守り人』みたいな話は、どうやって生まれてくるんですか」などなど。上橋さんも、子どもの頃から物語が、本を読むのが大好きで、物語をつくる人…作家になりたいと思ってきた。この本は、構成・文の瀧晴巳さんが上橋さんを取材し、語った生い立ちや作家になるまでをまとめたものです。

 上橋さんの物語は、壮大で、その世界の歴史や政治・経済・産業などもしっかりとつくられていて、でも現実世界でもありうる矛盾や闇の面もあり、それが物語に大きく関係してくる。そんな世界で自分の弱さと向き合いながら強く生きる人々の、それぞれの生きる道が細やかに描かれている。そして出てくるごはんがどれも美味しそう。こんな物語は、どうやったら書けるのだろう?私も何度も思った。文化人類学の研究者で、オーストラリアのアボリジニを研究している。「守り人」シリーズのバルサや、「獣の奏者」のエリンのように、広い世界で行動範囲の広い、視野も広い、思い切りのいい強い方なのかな、と思っていた。

 ところが、この本に書かれている上橋菜穂子さんは、子どもの頃に聞いたお婆様が語る物語や、数多の物語・本を読むのが大好きな、身体の弱い夢見がちな女の子だったのだそう。物語だけでなく漫画も大好き。学生時代ノートに漫画の落書きをしていたほど。物語と現実の境界が曖昧で、物語の世界に惹かれてばかりだった。人見知りで、小心者で、臆病で、外に出るよりも家の中で本を読んでいるほうがいい…とご自身のことを語っている上橋さん。
 驚きました。私も、その方が好きだから。外に出るのは勇気がいる。正直怖い。私も実は臆病で、心配性だ。失敗したら、傷ついたら…悪いことばかりどうしようと考えて不安になり、行動する前から心配ばかりしている。
 でも、上橋さんは、いつまでも「夢見る夢子さん」でいたくない、とえいっ!と外へ、本当の旅に出た。一歩を踏み出した。そのことが、文化人類学の研究でも、作家にも向かうことになった。この上橋さんのお話に、とても勇気づけられた。外に出てみないと、実際に行ってみないとわからないことが沢山ある。上橋さんが一歩を踏み出すために机の前に貼っていたという「言葉」には共感した。私も張っておこうかな。

 上橋さんが本を読んできて、感じたこと・考えたことに共感するところも多かった。2つ、いくつかの立場の境界に立っている人のまなざし・見方に惹かれるということ。
 特に惹かれたのが、この部分。引用します。
 境界線の向こう側には、まだ見ぬ地がある。
 もしかしたら「生きる」ということ、それ自体が、フロント=最前線に立つことなのかもしれない、と思ったりします。それぞれの生い立ちや境遇や、すごくいろんなものを抱えて、私たちは、いま、出会っている。誰もが自分の命の最前線に立っているのなら、それぞれに境界線を揺らす力、境界線の向こう側に越えてゆく力を持っているんじゃないか。
 相手を否定したり、恐れたり、あるいは自分の領分を守るために境界線を強くするのではなく、境界線を越えて交わっていこうとする気持ちを持てたら、どんなにいいだろう。
 私は、それを、子どもの頃からずっと願いつづけてきたように思うのです。
 そして、私の好きな物語に、もし共通点のようなものがあるとしたら、それは背景の異なる者同士がいかにして境界線をこえていくかを描いているところかもしれません。
(80ページ)


 この本では、上橋作品の引用も多くあります。引用されたシーンもですが、この内容ではこの作品のこのシーンかな?と自分でも他にも思い出しながら読んでいました。上橋作品の裏側、あのシーンにこんな想いが込められているとわかる本でもあります。

 また、研究職の方には、研究職の楽しみやつらさにも共感できる本かもしれません。私にとって、作家も憧れの職業ですが、研究職も憧れの職業でした。大人になって、研究職の方々の話を聞くと厳しい世界なんだなと思いますし、この本でも上橋さんが研究職も諦めそうになったエピソードは胸が痛みます。それでも、知の最前線をゆく研究職は、やはり私の中では憧れです。

 上橋さんの作品を読んだ後、その壮大さに圧倒されつつも、登場人物たちの生きる姿に清々しさを覚えるのですが、この本を読んだ後でも同じことを思いました。上橋さんご自身が、清々しく、力強く生きて、物語をつむいでいらっしゃるのだと。
 一歩を踏み出したい、広い世界を見たい。それを自分のやり方で表現したい、つくりたい。作家に限らず、そんな気持ちを呼び起こしてくれました。憧れを、形にする。自分の極限まで拡げて、掘り下げて、考えてみる。そして文章なり、何かにしてみる。
 上橋作品は、積読に何冊かあります。読みます。読むのが楽しみです。

 巻末には、上橋さんがこれまで読んできた本リストがあります。これはありがたい。

・全然関係ない(?)のですが、タイトルでこの本のことも思い出した:生きるとは、自分の物語をつくること
(小川洋子・河合隼雄)
上橋さんが、河合先生と対談したら、とても面白いことになったのではないかと思う…。
by halca-kaukana057 | 2014-01-31 22:22 | 本・読書

続けて、積み重ねる

 今日の「ほぼ日」の「今日のダーリン」。とても共感したので記事にします。明日になって消えないうちに、引用しておきます。
このごろ、いままで以上に強く思うようになったのは、
「明日がある」ということです。
ま、あるに決まってるような気もしますが、あえて、
「明日がある」ということを思い出すことにしてます。
 
それまでの考えは、ぼくの考えということじゃないけど、
真剣にやるときには、これが最後だと思ってやる、
というようなものだったと思うんです。
一度一度に、全力を尽す。
その考え方、わからないではないです。
きっと、ぼくも無意識でそう思ってきたんじゃないかな。
次がない、後がない、背中に断崖絶壁がある‥‥。
だからこそ、後悔しないためにすべてを出し尽くす、と。
 
ほんとうに、そうしたほうがいい場面も、あるでしょう。
でも、たいていの場合、
その時どきの失敗は、その時どきの失敗で、
次がないわけでもないし、失敗の可能性も計算ずみです。
「それでも、次はないと思ってやります」っというのは、
ほんとうの力を出しにくいでしょうし、
1回1回のチャンスを、ある意味では
粗末にしてるとも言えるんじゃないでしょうか。
 
まぁ、こういうことを言うと、
「真剣にやってる人間に失礼です」とかね、
「明日があると思っていたら、いいかげんになります」
なんてことを言ってくる人もいるかもしれないけれど、
それは、外野の応援席みたいな人の考えでね、
実際に真剣にやってる当事者は、だいたい、
最終的な集中とリラックスと両方を求めているはずです。
 
「明日がある」ということは、
「やりなおしが利く」という意味じゃないんです。
今日、いまやっていることの結果の上に、
次や、その次の真剣さを重ねていけるってことなんです。
この一撃に、すべてを望んで最大効果を狙っても、
それじゃ1点にしかならないかもしれない。
でも、この一度の続き続きを連ならせたら、
5点にでも10点にでも100点にでもつながるわけです。
もっと若いときに、そう思ってればもっとよかった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまやってる試合は、明日の試合の一部分でもあるんやで。

 私も、このチャンスは一度きり、今日は今日限り。後悔しないように、その時に全力を尽くす。そう思ってきました。せっかくのチャンスなのに、ちょっとしたことで逃がしたり、失敗してダメにしてしまったり。その度に後悔して、あれほど後悔しないように全力で、と思っていたのに…と悔しさを覚えたことは何度もあります。今もあります。あの時、行動に移せていたら。あの時、勇気を出して話していたら。後悔はしたくない。そうは思っても、人間完全には出来ないので、後悔することが出てきてしまう。それを認められずにいました。

 今日の「今日のダーリン」を読んでいて、「積み重ねる」について考えました。一度きりのチャンスに全力を出す、つまり、一発勝負。それがうまくいくとは限らない。一発勝負と考えれば考えるほど、プレッシャーもかかる、緊張してしまう。

 でも、人間は毎日積み重ねて、続けてゆくことが出来る。明日がある。ここぞという時に決める力は大事だけど、その決める力を毎日の練習や努力を続けて積み重ねていくことは出来る。毎日続けているからといって、なかなか思い通り積み重ねられないこともある。伸び悩み、マンネリすることもある。それでも、続けて、その続けている自分自身の成長を毎日こと細かく観察していれば、少しの変化にも気づくことだって出来る。また積み重なっている、伸びている自分を実感できる。

 寧ろ、何の積み重ねも無しに一発勝負で決まるものの方が少ないんじゃないかと思う。

 私は以前から毎日続けているものが、いくつかあります。ノートに書いている日記など。毎日、思ったこと、思いついたこと、悩んでいること、頭の片隅にあること、夢中でいること…色々と書いていると、ふと思いつくこともあります。

 このブログも、毎日ではないですが、今年で通算9年…?そんなに続けているとは思わなかった。何かしら、書きたいことがあるんだなぁ。書いていたら、こんなになってました。

 今日の真剣さを、明日も明後日も真剣さを積み重ねてゆく。その中でみえてくるものがあると信じたい。
by halca-kaukana057 | 2014-01-14 21:36 | 日常/考えたこと
 新しい年になり、心も新たに、一年の抱負や目標を…と毎年思うもの。しかし、意識しているのは1月あたりだけで、年末にはすっかり忘れ、また新年に目標を掲げ…まさにNHK教育「クインテット」の「ことしこそ」状態。ちょっと今年は変えてみよう。と思って、これを思い出した。
暮らすこと、生きること 「暮らしのヒント集」

 雑誌「暮しの手帖」の一コーナー「暮らしのヒント集」。「暮しの手帖」はずっと愛読していて、「暮らしのヒント集」も毎号楽しみにしています。また、増刊で各界の各年齢層の人の「暮らしのヒント集」を教えてもらう特集も。この「暮らしのヒント集」は松浦弥太郎編集長が考えているのだそうですが、増刊では様々な人たちの「暮らしのヒント集」が出てくるし、書籍を読んで自分の「暮らしのヒント集」を作ってみようかな、なんて思っていた。あれから数年…。ならば、今年の抱負・目標は自分の「暮らしのヒント集」をつくってしまおう。今の自分の状況、環境に沿った、合った、暮らしの中で大事にしたいこと、心がけたいこと、どんな暮らしをしたいのか…それを考えてみよう、書いてみようと、元日から考えてきました。

 そして、出来ました。ノートに、1ページにひとつ。
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 こんな感じです。勿論万年筆大活躍。下に余白をつけて、あとから気づいたことやメモ、更に発展した内容も書けるようにしておきます。ノートはページ多めのものを選んで、まだ増やせるようにしました。
 これを事あるごとに読み返して、心がけ行動しながら、自分の日々の暮らしをよりよくしていきたいです。


暮らしのヒント集

暮しの手帖編集部 / 暮しの手帖社


暮らしのヒント集2

松浦弥太郎 / 暮しの手帖社


わたしの暮らしのヒント集

暮しの手帖編集部 / 暮しの手帖社


続・わたし暮らしのヒント集

暮しの手帖社


暮しの手帖別冊 暮しのヒント集3 2014年 01月号 [雑誌]

暮しの手帖社


by halca-kaukana057 | 2014-01-04 22:50 | 日常/考えたこと
 最近のブログは、規模の大きめのものもよく書いた。書き終えて(一旦。書いたらここで終わり、ではない)、読み返してみてふと思った。

 自分が、あるひとつのパターンにはまっているように思える。この「はまっている」とは、「枠にはまる」という意味でもあるし、「夢中になる」というニュアンスの「ハマる」、両方の意味を持っている。
 何かを考えている時、自分の思考パターンがあるなと思う。本を読んでも、音楽を聴いても、それらを自分の中で咀嚼する時、ひとつの傾向がある。とらわれてしまっているような気持ちになる。そこから離れたい、違う考え方も持てるようになりたい。一度、今あるパターンをぶち壊してみたくなる。
 posted at 21:31:09

 その思考パターンも、常に一定ではない、変化し続けているとは思う。ひとつのパターンのように思えて、徐々に変化しているのを自分で気が付いていないかもしれない。もっと自分を客観的に見られたらなぁ。主観のなんと強いことか。
 posted at 21:34:45

 使う言葉も、語彙も表現も幅を広げたいなぁ。新しい言葉も、古くからある言葉も、理解して使えるようになりたい。
 posted at 21:36:14


 今日のツイートより引用しました。何かの影響を強く受けている…という自覚はある。それが、自分にとって大きなものだったのだから、影響は受ける。でも、それに「はまり過ぎている」自覚もある。自覚はあるけど、いざ何かに向き合おうとすると、またそのパターンが出てくる。ここで、冷めた目で「ああー…まただ」と思っている自分もいる。

 その考えを、より深めようとしているのかもしれない。より深めたいと思うほどになっている。それはそれでいいような気がするけど、時にはそのパターンから外れてみたい。別の考え方もあるんじゃないの?考える時に使う言葉も、いつも使っているような言葉ばかり。「他に語彙はないの?表現が貧しいんじゃないの?」そう自分に問いかける自分もいる。

 今の自分は、前とは違うかと思う。変化していると思う。でも、変化の途中で、もうひとつの変化を望んでいる自分もいる。ひとつの道を歩むと決めたら、他の道を歩むことは出来ない。出来ないけれど…考えること、表現することなら、それが出来るような気もする。そんなことしたらまとまりが無くなる…いや、実験としてやってみたい。試しに別の考え方もしてみたら、思わぬ発見があった。ああ、「道草をする」ということか。

 そんな、柔軟さと、自分を客観視することと、考えも言葉も表現も磨き続けることを、怠らず、続けてゆきたいと思っています。

【過去関連記事】
"柵"の中で気付いたこと(2006.12.24)
自分を型にはめない(2010.7.27)
自分の”型”の外へ出よう(2010.10.14)
by halca-kaukana057 | 2013-12-08 22:49 | 日常/考えたこと

私の、続きの物語を

 今日の「ほぼ日刊イトイ新聞」の「今日のダーリン」より。いつものように、「今日のダーリン」にはログが無いので、読めるのは今日だけ。引用します。
ほぼ日刊イトイ新聞
なんでも、終るものだよなぁ。
なつかしみ過ぎたり、未練たらたらってのは、
あんまりよろしいことじゃないと思います。
じぶんという主語で考えたら、
去り行くものの後ろ姿をいつまでも見てるより、
じぶんの足をたがいちがいに前に出せっちゅうことやね。

終りとか、別れとかのなかには、
もれなく、ハードボイルドなメッセージが
込められているのです。
「さらば‥‥」そこまでは、わかるね?
そして、「おまえは、これからどうする?」です。
いつまでも、たのしませてもらうことじゃなく、
「おまえ=つまり、おれ=それぞれの人」が、
続きの物語を歩き出せ、です。


 今日のは読んでいて、自分にとってとても痛い、つらい…と感じてしまいました。

 始まれば終わりがある。当然のこと。
 でも、その最中には、「終わる」ことなんて、あまり意識しない。好きなものであればあるほど、終わりを考え、それに備えるよりも、その最中を楽しむ。だからこそ、終わると知った・気づいた時、終わった時のショックやダメージは大きく来ます。終わった時は、感謝や高揚した気持ちを味わうけれども、時間が経つにつれて、ショックやダメージ、喪失感が増してゆく。未練も募る。「戻ってこないかな…」なんて思ってしまうこともある。

 でも、そうじゃない、とも思う。
 そんなに大好きなら、終わった後を自分は引き継いでいかなければならない。続きをつくるのは自分だ。自分の中にある、終わるまでの日々で感じたこと、考えたこと、学んだこと…受け取った全てのことを、これからの自分の生きる中で、生かしてゆくのが大事なのではないか。
 「おまえは、これからどうする?」何かが終わる度に、まさにこの言葉が心の中にありました。

 これからどうするか。これからの自分の生きる中でどのように生かしてゆくのか。

 これには様々な答えがある。様々な方法がある。ストレートなものから、ちょっとひねったものまで。
 色々と考えてきたが、答えを出せたものもあるし、未だに出せずに未練タラタラに引きずっているものもある。未だに出せないものは、ひねりの工夫が足りないのかもしれない。ストレートにやろうとして、うまくいかなくて壁にぶつかってしまっているのかもしれない。
 方法はひとつじゃない。続きの物語はひとつじゃない。幾通りの物語がつくれるはずだ。

 「終わり」に接し、通過する度に、自分の新しい何かがスタートしている。これは、終わることがないのだなと思う。


 ※独り言に近い形で書きました。きわめて個人的なことです。個人的なことだけど、書かずにいられなくなって書きました。
by halca-kaukana057 | 2013-10-01 22:04 | 日常/考えたこと

ライアの祈り

 「津軽百年食堂」「青森ドロップキッカーズ」と、森沢明夫さんによる青森が舞台の小説シリーズの第3作、完結編です。



ライアの祈り
森沢明夫/小学館/2012

 弘前で百年続く老舗の大衆食堂「大森食堂」の長女で、今は八戸のメガネ店に店長として勤めている桃子。35歳、離婚歴あり。従業員の桜に誘われ、合コンに参加することに。参加者は20代、桃子は”人数合わせ要員”として行ったつもりだった。しかし、そこには同じく20代ではない男性がいた。佐久間五朗・通称「クマゴロウ」さん。40代の彼は、八戸の縄文遺跡を発掘している考古学者で、大人しく温厚な一方、縄文の話になると楽しそうに話していた。桃子は五朗の縄文時代の話に徐々に聞きいっていく。その合コンの日に観た、縄文時代と思われる夢のことを思い出しながら…。


 ”青森3部作”の完結編は、「津軽百年食堂」では主人公・陽平の姉、「青森ドロップキッカーズ」ではメガネ店の仕事をしながら、カーリングのリンクの製氷を学び、カーリングもやっていた、あの桃子さんが主人公です。桃子さんが主人公と聞いておおう!と反応してしまいました。今までは主人公たちを支え、笑わせ、和ませる陽気な名わき役。でも、30代にして離婚歴あり。それを自虐ネタで語り笑い話にしてしまう。今作でも、姉御的存在ではあるのですが、これまで語られなかった桃子さんの一面が語られます。自虐ネタにしないと、耐えられなかったんだ、と…。

 そんな桃子さんが出会った、縄文が専門の考古学者・クマゴロウさん。大人しく、照れ屋で、温厚温和。控えめだけれども、縄文のことになるとその魅力について熱っぽく楽しく、初心者にもわかりやすく話す。クマゴロウさんの縄文のお話の部分を読んでいて、私も一緒に惹かれてしまった。

 青森の縄文遺跡と言えば、三内丸山遺跡。青森県立美術館の隣にあるので、美術館に行くと行くことも少なくありません。現代の技術でも建てるのが大変な大型掘立柱。これを縄文の人々はどうやって建てたのだろう?大きな竪穴住居も、中の広さに驚きます。そして、土器や石器、クリを栽培した跡…。今の三内丸山から海は離れていますが、当時は温暖な気候で、海が近くにあったという。そんなこのムラで、人々がどんな暮らしをしていたのか…遺跡を歩きながら、いつも思います。青森には三内丸山だけでなく、八戸の是川遺跡や長七谷地貝塚など縄文時代の遺跡が数多くあります。三内丸山しか行ったことが無かったので、今度は他の遺跡にも行ってみたいな。三内丸山もまた行きたい。見方が変わるかも。この物語では八戸が舞台なので、八戸の縄文遺跡が主に登場します。でも、三内丸山も関係してきます。

 今作のテーマは、「祈りと信じること」、そして「幸せとは何か」だと読みました。物語は桃子さんとクマゴロウさんを中心にした現代も語られるのですが、桃子さんが夢で見たという縄文の話も同時に語られます。足が速く男たちに混じって狩りをする男勝りな少女・ライア。父は天才的なシャーマンだったが、ライアが幼い時に死去。父の才能を受け継いだのか、森などの自然の”息吹”を感じるのも得意だった。しかし、狩りで巨大なイノシシに遭遇し、大怪我を負ってしまう。走ることはおろか、歩くことも不自由になってしまったライア。そんなライアを見守る、族長やきょうだい同然に一緒に暮らしてきた少年・マウルや親友の少女・サラ。これからは狩りは出来ないが、ライアには新しい”使命”が与えられる。そこから、ライアの”祈り”の日々が始まる。ただ、ライアは足の他にも、あるものを失う不安があった…。

 縄文のライアの「祈り」と、現代の桃子さんの「祈り」。何か辛いことがあったり、自分の力だけではどうしようもないことが合った時、普段何気ない時でも、私は「祈る」。でも、「祈る」だけじゃ何も変わらない、行動しなきゃ変わらない…とも思う。実際そうだと感じてきた。でも、「信じる」ことも出来る。シャーマンは自分のことを「祈る」ことは出来ない、他者のことだけを「祈る」ことが出来る。だから、自分のことは「信じる」。行動して、変えることが出来ると「信じる」。その違いに、ああ、と胸にすとんと落ちるものを感じました。

 そして、「幸せとは何か」。これまで、陽気でバツイチの過去も笑って話せる桃子さんの心の奥底にある、ある不安・苦しみ。その過去は誰にも、家族にも話せずにいた。ところが、クマゴロウさんや桜ちゃんと「幸せ」について話してから、その過去にも向き合い始める。「幸せ」と「不幸」は、紙一重のようなもの。クマゴロウさんが言うように、何かが起こって、それを幸か不幸かと決めるのは、人間。その人次第。離婚をして、辛い思いをした桃子さんも、その時は不幸だったけれども、後でそうでもないと思えるかもしれない。よくある話なのですが、この「幸せとは何か」についても、胸にすとんと落ちました。

 読んでいて、とても「幸せ」な、希望を持てる、あたたかい気持ちになれました。クマゴロウさんの人柄のような。桃子さんも、桜ちゃんも、優しい。桃子さんが実家でお母さんと話すシーンも。
 私も、辛いことや先が見えないことばかり、過去にもしこりを持ち未だに赦せないけれども…いつか、何もかも全部丸ごと受け止められるようになるだろうか。なりたい。桃子さんやクマゴロウさん、ライアやマウル、サラたちのように。幸せを、「幸せだ」と、祈って、信じて。

 ちなみに、この前書いたこの記事は、この「ライアの祈り」を読んでのものでした。
「感動する」物語と自分

 あと、この本ですが、お腹がすいている時に読むのは危険です。八戸の美味しいものが次々と…wお酒が好きな方は、美味しいお酒も次々と…w とりあえず、「サンダー・バー」のダイキリが飲みたいです。

 私は2作目の「ドロップ~」から読んでしまいましたが、読むなら1作目の「津軽~」から読むことをオススメします。この「ライア~」だけでも読めないことは無いですが、物語のつながりの面白さが増します。
・第1作:津軽百年食堂
 そういえば、映画版をまだ観てなかった…。
・第2作:青森ドロップキッカーズ

 青森3部作はこれで完結ですが、「津軽~」の美月や正宗、「ドロップ~」の宏海や雄大、柚香・陽香姉妹のその後も読みたかったなぁ。
 あと、ひとつ注文があるとすると、方言の雰囲気があまり感じられなかったのが残念。青森に行くと、ばりばりの津軽弁・南部弁を話す若い人は多くは無いですが、それなりに方言を使ったり、イントネーションは訛っている人は多い。”訛っている感覚・雰囲気”が欲しかったなぁ…標準語のイントネーションで読めてしまった。訛りも、今じゃ大河ドラマも朝の連ドラも訛っている、方言全開だし…。
by halca-kaukana057 | 2013-08-13 23:01 | 本・読書

ルチアさん

 気になっていた本です。児童文学、ですが、読んでみると…

ルチアさん
高楼 方子:作/出久根 育:絵/フレーベル館/2003

 「たそがれ屋敷」と呼ばれる家に、奥さまと2人の娘、2人のお手伝いさんが暮らしていた。屋敷は鬱蒼と茂った木で暗く、奥さまも痩せてうつむき憂鬱そうに見える。旦那様は外国航路の船乗りで、滅多に家には帰ってこなかった。2人の娘は上の子がスゥ、下の子がルゥルゥ。そんな「たそがれ屋敷」に、もうひとりお手伝いさんがやってきた。名前はルチアさん。スゥとルゥルゥは、ルチアさんを見て、ルチアさんが水色に光っているように見えるのが不思議だった。それは、お父様が海の向こうから帰ってきた時にお土産にくれた、きらきら輝く水色の玉の「宝石」に良く似ていた。そして、ルチアさんは特別おしゃべりと言うわけでは無いのに、周囲の雰囲気が明るくなるようで、またルチアさん自身も、事件に巻き込まれても動じず朗らかに仕事を続けた。そんなルチアさんの秘密を探ろうと、スゥとルゥルゥはこっそり夜道を帰るルチアさんの後を追う。隣町の、ルチアさんの家と思われる家の前で、ルチアさんの娘のボビーと出会い、ルチアさんが何故水色の「宝石」のように光っているのか尋ねるが…

 不思議なお手伝いさん・ルチアさん。
 鍵となるのが、スゥとルゥルゥの「宝物」の水色の玉。その「宝物」と、ルチアさんの秘密と、ルチアさんのおじさんが大切にしていたあるものの関係。それを知ったボビーは、これまで何とも思わなかった母・ルチアさんや、その他関係のありそうなことについて考え始める…。

 ここまであらすじばかり書いてしまった。ルチアさんが本当に不思議で、私も惹かれていった。私なら「今日こんなことがあった、最悪だ…」と何日も愚痴を言いそうなことにも、穏やかに動じない。その一方で、「今日こんなラッキーなことがあった。すごい、嬉しい!!」と満面の笑みで喜びそうなことでも、やっぱりいつも通り。いつも朗らかで、噂(多分ゴシップネタも好きかもしれない)お手伝いさんのエルダさんとヤンガさんも、ルチアさんがやってきてから変わりだす。憂鬱そうな奥さまも。心の中にある、憧れやきらきらした思いを打ち明けたくなる。


 「心の中にしまったなにかしら輝くような思い」。その一方で、日々の暮らしの細々としたこと。水色の「宝石」、ルチアさん自身が表しているもの…「どこか遠くのきらきらしたところ」を思い、満たされながら、「ここ」にいるけど、同時に「どこか」にもいる。

 私は、よく「こんな毎日から抜け出したい」と思っている。日々の暮らしや仕事の細々としたことに悩み、苦痛に思い、そんな毎日が続いてゆくことも苦痛に思う。退屈に思え、嫌なことも多い毎日にも、小さな幸せはある、見つけようと思えば見つけられる…同感、そう思うこともあるけど、その「幸せ」で心が満たされる時間は短い。またすぐ現実に引き戻され、ため息をつく。だから、こんな毎日を抜け出したい、と思う。そして、ここじゃない遠くには、憧れるものや強い幸せを感じるものがある。憧れのフィンランドに行ってみたい、シベリウスの家”アイノラ”に行きたいとか、星がきれいに見えるところで思う存分星見・天体観測したいとか、大好きな演奏家のコンサートに行きまくりたいとか、読みたい本を思う存分読みふけりたいとか…。お金に困らない暮らしがしたい。もっとやりがいのある仕事がしたい。行動力と体力が欲しい。抱えている体調不良が治り消えれば、どこへだって行けるのに…。いつも何かに縛られている気がして、自由になれない。その縛っているものがなくなればいいのに…。こんな風に、「どこか」に憧れる、が、手は届かず、「ここ」には不満ばかり持っている。

 だから、「どこか遠くのきらきらしたところ」が心を満たし、「ここ」で毎日勤勉に働き暮らしながらも、同時に「どこか」にもいる。「どこか」と「ここ」がひとつになる。そんな幸せがあるのなら…そうなりたいと思った。そうなるにはどうしたらいいだろう?でも、それが本当に幸せなのだろうか?読みながら考えていました。

 「どこか」と「ここ」がひとつになる。それはとても難しいことだ。毎日の「ここ」での暮らし・仕事が精一杯、「ここ」が全ての人。「どこか」を捜し求める人。どちらの暮らしがいい・悪いとは言えない。「どこか」と「ここ」がひとつになる暮らしも。理想と思うけれど、完全によいとも言えない。ネガティヴなことをネガティヴと思えないのもどうなのだろう…と。
 私はどちらでもない。「どこか」を捜し求めたくても、「ここ」に”縛られている”と感じている。これもまた、自分は悪い・辛いと思うけれども、そうとは限らないかもしれない。”縛られている”という意識が消えれば、心は楽になれるんじゃないか。

 とても不思議で、深く、心の奥底に後からじんじんと響いてくる物語。高楼方子(たかどの・ほうこ)さんの作品は初めて読んだのですが、他の作品も読みたくなりました。絵の出久根育さんは、梨木香歩さんの絵本「ペンキや」の絵も描かれた方。表紙にちょっと不気味なものを感じたのですが、中のイラストはきれいで幻想的です。

ペンキや

ペンキや

梨木 香歩:作/出久根 育:絵/理論社/2002


 この本ももう一度読みたい。この「ルチアさん」と共通する部分もある。
by halca-kaukana057 | 2013-07-17 22:54 | 本・読書
 以前から考えている「人から妨害を受けたり、傷つけられたり」すること、その時「痛い」と表現すること。その続きです。

「痛い」と表現すること
何が「痛い」のか・作り手と受け手のすれ違い 最近思ったこといろいろ
 ↑この記事の真ん中あたりの部分です。

僕は、そして僕たちはどう生きるか

梨木香歩/理論社/2011


僕は、そして僕たちはどう生きるか
 梨木香歩さんのこの本を読んで、この思考は始まりました。


 これまで考えてきたのは、自分が「人から妨害を受けたり、傷つけられたり」され、「痛い」と表現するかどうか。なら、立場が逆転したら?
 「痛い」と表現することの記事で、大学時代に出会った友人とのことを書いた。これも私が言ったことが友人には「傷つけられ」「痛い」ものだった。ただ、この時友人は「人の好きなものに対して、面と向かって嫌いって言うのはどうかと思う」と、「痛い」と表現した。
 私は言われて「痛い」と表現しない、できないことが圧倒的に多い。痛くても、黙って踏ませておく。このぐらい我慢できる、傷ついてなんかいない、と。でも、「痛い」と表現することの記事で書いたとおり、自分の好きなものを否定されたら、自分そのものを否定されたような気持ちになる。だからかなしくなる。痛みを我慢したり、痛くないと無視することが、余計自分の辛さを増幅させるように思う。

 では、私の発言が誰かの痛みとなり、その人が私と同じように痛みを我慢している、表現しないとしたら?

 人に優しく、人を思いやる発言をしよう、と思うけれども、何が誰かにとって痛みとなる発言なのか、わからないことは多い。ポジティヴな発言でも、相手にとってはプレッシャーとして、ネガティヴなものに、痛みになるかもしれない。何かを「好き」という発言も、誰かにとっては「嫌い」なものであり、痛み(怒り、恨みに近い)となるかもしれない。

 また、前の記事では、面と向って「嫌い」と言うことに対して書いていたが、直接ではなく間接の場合もある。他の人と話しているのを偶然聞いてしまった(小説や映画、ドラマなどでよくありそうなシーンだな…)など。この場合は、「痛い」と表現するのはかなり難しい。その人に対する見方が大きく変わり、付き合いも変わる可能性が高い。

 これらの時は、どうしたらいいのだろう。その時その場で、は難しい。後で、時間をかけて話す。
 「傷つけたかもしれない」と自分から謝ろうか迷うことはよくある。「かもしれない」だから迷う。謝ったけど、実際は違ったらしく「何のこと?」と言われ、逆に関係が悪くなってしまった…ということもあるからだ。

 自分の発言で、誰かが苦しい、辛い、悲しい思いをするのは、私自身も辛い。でも、その誰かの思いは、必ず表に出てくるものとは限らない。そのうち、相手は我慢できなくなって、自分から離れていってしまうかもしれない。それはそれで仕方ないけれど…。ショックである。辛い。



 とは言うものの、時には、「嫌いなんだ」と表現してしまいたくなる時もある。我慢できない、本当に受け付けないぐらい嫌い・苦手でどうしようも無くて、それを表現しないと自分や相手との関係を守り保てないようなこともある。

 「痛い」と表現するのも、されるのも、我慢するのも、我慢されてしまうのも…本当に難しい。一筋縄ではいかない。今はこんなまとめしか出来ないのが悔しい。
by halca-kaukana057 | 2013-07-02 23:14 | 日常/考えたこと

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